メガミル
見るということが、この世界にあるものを映した私の網膜上の形成だとしたら、絵は“知りえない世界”を結実させた、それが誰かさえわからない者の網膜上の形成物なのかもしれません。(図参照) 前者では、網膜上の刺激が視神経を通して脳につながり、認識が生じるのですが、後者ではそもそも見ている主体がはっきりしないので認識されること、そのものが成立しません。しかしそれは決して超越的なものではなく、いわば無数の生きている眼があるようなものです。 メガミル(眼が見る)*というのはそういうこ…
見るということが、この世界にあるものを映した私の網膜上の形成だとしたら、絵は“知りえない世界”を結実させた、それが誰かさえわからない者の網膜上の形成物なのかもしれません。(図参照) 前者では、網膜上の刺激が視神経を通して脳につながり、認識が生じるのですが、後者ではそもそも見ている主体がはっきりしないので認識されること、そのものが成立しません。しかしそれは決して超越的なものではなく、いわば無数の生きている眼があるようなものです。 メガミル(眼が見る)*というのはそういうこ…
大学の交流で上海に行ってきました。(旅ムサin Shanghai ) 上海には強烈なリアリズムがありました。といってもそれは描き方のリアリズム(写実主義)ではなく、社会のなかでアートがいかにして生き抜いていくかというリアリズムのことです。国が政治、経済と同じように文化政策としてアートを推進し、それらと緊張関係をもちながらアートシーンが出来上がっていました。作品が流通して、一部の作家たちはますます制作に邁進し、それを欧米の人たちが見に来てまた作品が流通していく、という循環…
わたしの個展のあいだに宇佐美圭司さんが逝去されました。宇佐美さんはわたしに「ムサビに来ませんか?」と言ってくれた人で、そのときの電話は今でも覚えています。丁寧さと率直な話し振りに、はじめは学生かと思ったものです。 それからの付き合いは、油絵学科での絵の話やBコース(現代美術系)の確立などいろいろあるのですが、わたしが思い出すのは裸の宇佐美さんの姿です。と言っても、それは正確には水着姿のことです。彼は吊るしのジャージーを着て大学に来ました。そして助手の岸本くんやわたしと一…
展示会場にて Tさん:長沢さんの今回の展示を見てスペインであった80代のおばあちゃんのキリスト像修復記事を思い出したのだけどどう思う? ながさわ:あれはよかった。ぼくもあの記事を読んでコンセプトが同じだと感じたよ。絵がおもしろいし、“いま”を肯定しきるところがすばらしいと思った。 Tさん:過去のものを壊してまで?あれはもうもとに戻らないよね。 ながさわ:過去のいいものを保存するのはもちろん大切だけど、それが“いま”に生かされなかったらなんにもならないんじゃないの。 Tさん:…
ギャラリーモモでの長沢秀之展が始まりました。昨日がそのオープニングだったのですがギャラリーの杉田さんの求めに応じて簡単な作品の説明をしました。油彩は大きく分けて次の3つに分かれること、 ○誰かわからない人が描いた模写作品の上に点をのせたもの ○模写下絵を発注し、その上に点をのせたもの ○自分で描いた作品の上に点をのせたもの そして一見下絵のように見える線画はすべての作品が終わった後に、もとの絵がわかるように描いたものであること、などなどを話しました。(展示コンセプトがブログ…
“てぬぐいをやりませんか”という注文が大学の出版局からあり、おもしろそうなので引き受けました。だるまの「大小」やアヤメの「大小」などいろいろ描いたのですが、最終的にこの「スターフラワー」(ボリジ)になりました。気に入って草むしりのほおかむりに使っています。 詳しくは以下のリンク先へ http://www.maugoods.jp/goods/999061/http://www.maugoods.jp/goods/999060/
ギャラリー発表の展示紹介に“4年ぶりの個展”という文字があり、われながらそんなに経ってしまったかと驚いています。最初の数年は母の介護に明け暮れて作品をつくる時間がかなり少なくなったのですが、時間がないときにいつもやれるように、と思って始めたのが今回の作品制作のきっかけでした。 捨てられた下絵(模写)に点をおくだけの“絵”ですから一定の集中時間があればいつでもできます。はじめは番外編としてつくったものが徐々におもしろくなり結果的に26点の作品ができて展示となりました。 …
イレズミはたぶん痛い。 刺されたボディは痛がっている。それでも皮膚はそこに新たな絵が刻まれることを待ち望んでいる。それは生まれたままのものではなく、ゆがんだ表面を獲得する。 過去の「名画」にイレズミをするかのごとく点を刻んでいくことは通常の絵をつくる行為とは少し違っているのかもしれない。私はそこに何も描かない。筆は何 かを描くためにあるのではなくただ点を刻印するためにある。ひとつひとつの行為の痕跡を刻むためにある。もともとあった絵画空間はパラパラとくずれ去り、 そこに…
この展示(*注1)は「大きいゴジラ」と「小さいゴジラ」でひとつの教室を埋め尽くす、というものです。 「大きいゴジラ」は、1954年の映画「ゴジラ」*(注2)を もとにしています。戦後まもない時期につくられたこの映画は暗く陰鬱で決して娯楽作品とはいえませんが、それゆえに私たちをひきつけてやまない不思議なち からをもった作品です。1954年と言えば米ソ冷戦が激しくなった頃であり、アメリカが南太平洋のビキニ環礁で水爆実験をし、折からマグロ漁船の「第五福 竜丸」の乗組員がその…
俵屋宗達と本阿弥光悦による「蓮下絵百人一首和歌巻」という江戸時代の名品がある。宗達が蓮の葉や蕾、花などを描きそのうえに光悦が小倉百人一首の和歌を書いたものである。ふたりの共同作業による傑作としては「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」がありこれもすばらしいが個人的には前者のほうにある種のすごみを感じる。なにがすごいかといえば、蓮と和歌の文字との距離の絡み合いの妙である。たらしこみによる宗達の蓮の下絵は薄くぼんやりとして宗達独特の絵画空間をつくっているが、光悦の文字は全く逆にその表面にさ…