記憶について<対話「私が生まれたとき」神戸ー25年あと(未来)の記憶ー>展によせて

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  この世は私たち生きている者だけの世界ではない。あなたのなかにはおじいちゃんやおばあちゃんがいて、かつての自分もいることだろう。私たち生者は死者とともにある。言葉や絵、およそつくられたすべてのものが、生きている人たちだけではなく死者にも向けられている。もしもそれらが生きている人たちだけのものとすると、それは単なる癒しのもの、趣味のもの、うすっぺらな美しいものだけになってその豊かさを失うだろう。 原爆の図にしても、生きている私たちにその惨状と作者の感情を訴えるとともに死者に…

「Le Meraviglie」(夏をゆく人々)、ヴィヴィアン・マイヤー、そして失敗について

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  「・・・この世界は終わろうとしている」このことばひとつで映画は俄然輝いてくるのだった。映画Le Meraviglie(メラヴィリエ=不思議、奇跡、驚き。ちなみに日本語版題名は「夏をゆく人々」)の主人公の父がテレビに映されたほんの一瞬で言うことばである。そしてエンディング、この父親が主人公のジェルソミーナに買ってきたラクダを映すカメラが一回りする間に、この一家の家は誰も住んでいない廃屋になっている。いや、この物語自体が存在しなかった、あるいはもうとうになくなってしまった物…

PAINTING on PAINTINGまたはイレズミについて

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イレズミはたぶん痛い。  刺されたボディは痛がっている。それでも皮膚はそこに新たな絵が刻まれることを待ち望んでいる。それは生まれたままのものではなく、ゆがんだ表面を獲得する。   過去の「名画」にイレズミをするかのごとく点を刻んでいくことは通常の絵をつくる行為とは少し違っているのかもしれない。私はそこに何も描かない。筆は何 かを描くためにあるのではなくただ点を刻印するためにある。ひとつひとつの行為の痕跡を刻むためにある。もともとあった絵画空間はパラパラとくずれ去り、 そこに…

この“ゴジラ”展示(中学校)は終了しました。

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この展示(*注1)は「大きいゴジラ」と「小さいゴジラ」でひとつの教室を埋め尽くす、というものです。    「大きいゴジラ」は、1954年の映画「ゴジラ」*(注2)を もとにしています。戦後まもない時期につくられたこの映画は暗く陰鬱で決して娯楽作品とはいえませんが、それゆえに私たちをひきつけてやまない不思議なち からをもった作品です。1954年と言えば米ソ冷戦が激しくなった頃であり、アメリカが南太平洋のビキニ環礁で水爆実験をし、折からマグロ漁船の「第五福 竜丸」の乗組員がその…

秋田蘭画≪おくゆき≫わたし

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「不忍池図」小田野直武   “これは空なのか、それとも地(背地[バック])なのだろうか  小田野直武の「不忍池図」*1を見たときの衝撃は今でも忘れることはできない。「不忍池図」には“おくゆきはなぜできるのか”という私自身の絵画への興味の原型があり、2次元と3次元の変換の問題がある。さらには、日本絵画と西洋絵画との接点としての意味もあるだろう。そんなことを確信したのを覚えている。ここではそれらの事柄を絵に即して述べていきたいと思う。  まず、「不忍池図」であるが、秋田蘭画の特…

「目を閉じて」展 長沢秀之原稿

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1993年の個展のパンフレットに、わたしは次のような言葉を書きました。 画家は一個の盲目者である。 画家は見ることと、見ることの断念との間にある。 絵画という窓は、画家⇔盲目者という往復運動の通過点(門)である。 画家はこの窓を通して視覚を失い、また逆にそれを獲得する。(以下略)*注1 そして、2006年の個展「メガミル」のカタログには次のような文を書き付けました。 ワタシガ見ルノデハナク、眼ガミル。 認識ノ方向デハナク、認識ノ外ノホウヘ。 脳内ヘノ書キ込ミヨリハ、ムシロ、…

『サイボーグの夢』

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「いつの頃から身体がなくなってしまったのか記憶にないんだけど、つくづく身体がないなと思ったんですね。」(押井守)  私たちはもうサイボーグ になってしまったのだろうか?  パソコンやケータイのディスプレイを通じて、視覚はCPUにつながり、そこに集積された欲望はさらに無数のCPUを通じて変形され、個々の視覚と脳に配 給される。感覚の延長は当然のごとくそれらによって統合されている身体や自意識にまで変化をおよぼす。それらの視覚を中心とした圧倒的な情報量の前に、触 覚はかたすみに追…