アートのなかの“生きもの”はすべて亡霊です。それは以前から感じていたことですが、その思いを強く持ったのは、先日神戸の六甲山に「六甲ミーツ・アート 2012」を見に行った時でした。
木村幸恵の“クリスタル・オーガン”(*写真参照①) はオルゴール館での展示でしたが、透明素材を使った作品は小さな一室の古い家具(オルゴール)に囲まれて出現した亡霊、あるいは幽霊のように感じられました。それが“もの”なのに、まるで生きているかのように出現していることに新鮮な驚きをもち、いままで見てきた彼女の作品の中でもっとも成功していると思いました。“場所”が生かされていたこともあったのでしょう。まさに出現を待っていたところに出現していました。
場所を生かすこと、これは他の会場のいくつかの作品にも感じられたことでした。しりあがり寿さんの「レストランの秘密」の展示の一番奥の最強の4番打者製造工場のサイボーグにもそれは感じたことです。暗い厨房の中でいきなりこれがウォーッと叫び出した時はびっくりしたのですが、これも古い厨房が見事に作品に生かされて、まるでここでしかあり得ないような秘密の工場が出現していました。またその前々室の線を使ったビデオ作品もとてもおもしろいものでした。「リング」、「マトリックス」、「タイタニック」などの映画作品の主人公などを線でトレースして、全方向から見る3D技術を組み合わせた作品は、高度のテクニックを使っていながらそのなぞる線が省かれ、得体の知れない生きもの(双頭の、あるいはユニセックスの)をそこに出現させていることに成功していました。線を引いた瞬間、そこにかたちや意味がつくられるという絵をかくことの原点がよく出ていました。高度のテクニックを使いながら、それを表に出さずユーモアに包み込んでさりげなく出すところがすごいと思います。
木村充伯さんの作品「ひもに顔(ひとの巣)」*写真参照② は古びたコンクリートの覆いの下にひもと油絵具だけで、無数の“ひと”を出現させていました。こういった古い覆いの下には、根っこやはがれたものがつり下がっているのをよく見かけますが、これが全部ひとの顔となるとぞくっとします。
それらはみなただの亡霊ではなく、“生きたなにものか”なのだと思います。
ゴーレムの神話のように土塊に命を吹き込まれ、いままさに呼吸をし動き出したようなものです。あの世からやってきているのに生きているなにものかなのでしょう。
そんなことを感じて六甲おろしの風とともに山を下りました。