見るということが、この世界にあるものを映した私の網膜上の形成だとしたら、絵は“知りえない世界”を結実させた、それが誰かさえわからない者の網膜上の形成物なのかもしれません。(図参照)
前者では、網膜上の刺激が視神経を通して脳につながり、認識が生じるのですが、後者ではそもそも見ている主体がはっきりしないので認識されること、そのものが成立しません。しかしそれは決して超越的なものではなく、いわば無数の生きている眼があるようなものです。
メガミル(眼が見る)*というのはそういうことをイメージしたときに出てきたことばです。私が見ているのではなく、眼が見ている、そのようにして絵はつくられるのではないでしょうか。ですから絵をつくるとき“私”は一個の盲目者に過ぎず、眼のないもの、眼をとられたものとしてそこにあるのです。そうして絵がつくられ、成立したときにようやく私は眼を取り戻し、それを見ることができるのです。
*メガミル=眼が見る=Megamill(巨大粉砕機=かたちを壊し、色チップにする)