C通信 131: ひとウサギ
こたつのひとウサギたちはまだヒソヒソ話をしている。
こたつのひとウサギたちはまだヒソヒソ話をしている。
3次元世界にもどってきた宇宙船オリヅル号は石の隠れなさに驚いている。石はそのどれもが粒子を露にし、地中や海底で起こったことを、千年、万年、億年の長きにわたって語っている。宇宙と繋がっているから宇宙に行く必要がない。オリヅル号の文明はその名が宇宙船であるように宇宙を対象として見なければならない。
アセファルの後ろ姿を見たと言う情報がSNSに寄せられた。アセファルは見えない存在だからそのものは見えないはず。たしかに頭部がなく、にんげん人とは違っているのでその可能性は否定できない。もしかするとこの画像の情報を寄せてくれたそのひとがアセファル宇宙人なのかもしれない。
死の前の、最後に見たものが記憶の島には残っている。ボディーに残された世界の断片。
暴力がまだこの手にあったころ、手には生暖かい、あまたのおぞましい記憶も刻まれた。それから時を経て、手は多くののデバイスにつながれて記憶を奪いとられ、平和という名の別の暴力のもとにある。手はなおもあらがう。千手観音の千の手は奪われた手の記憶を示している。
犬の記憶のなかにひとがいる。二足歩行のひとが5歩歩くうちに4足歩行の犬は20歩は優に歩くから、なんてひとは動きが鈍いと思うだろう。犬は考えないでひたすら歩き、歩いては止まる。そうして風景を見る。記憶のなかのひとがなにか声を出している。ワンワンとこたえる。
記憶はイメージではない。億年のかなたから、海馬の片隅から囁くようにやってくる。それは死者のつぶやきだ。
生者も死者も、記憶のなかではみんな生きている。
血みどろの進化のはての記憶に破壊、虐殺の記憶も層になる。 特攻機の墜落、震災の記憶、戦争の記憶が混じりあってこの死者を苦しめる。虐殺の記憶も消えない。死者はそれを自らのボディーに閉じ込め、ときおり生者にその感情を引き渡そうとするが、生者は過ぎ去ったものとして見ようとしない。だから死者は記憶の島を前のほうに浮かび上がらせようとする。
記憶は見るものではなく触るもの、いや触ることさえできないだろう。それはボディーに生じるからそこにある。記憶を取り戻すには、脳よりはボディーに耳を傾けることから始めなければならない。ボディーには500万年の記憶がかすかに残っている。あるいは35億年・・・