デヴィッド・リンチと「希望の国」

デヴィッド・リンチと「希望の国」

2012年12月7日

「デヴィッド・リンチ」展を園子温の「希望の国」と対比的に見る。

  デヴィッド・リンチはおもしろい。とにかくかっこいい。今回の展示ではドローイングがとくによかったと思う。大作のペインティングもいくつかあって、これらはオルセー美術館の「CRIME & CHATIMENT」(*注1参照)展の最後の部屋にあったリンチの作品「Do you want to know what I really think ?」というジーンズを貼付けた作品から続いている一連の作品と思った。

 彼の映画は恐怖がこえ(音声)とともにやってくるが、これらの絵でもそこに描かれたことばは重要な意味をもっている。それを発する口が傷ついている作品などを見るとその恐怖は倍加してしまう。でもやはりその恐怖と美がないまぜになって“肉的”にくい込んでくる世界にはどうしても魅入られてしまう・・・、とここまで感じたところで午前中に見た園子温の映画「希望の国」を思い出す。

 「リンチはおもしろい」とか「かっこいい」と言っている自分は本当に大丈夫か?「恐怖」と言うけれどそれはある種の退廃が進んだ国の恐怖であって、今ここにある恐怖のほうがよほど切実なものではないか?それを見ずにアートの世界に遊んでいいのだろうか?

 というのもこの映画には今の私たちがおかれた状況が率直に現れているからだ。しかも彼の作品は社会派のそれではなく、とてつもなく詩的な場面も出てくる映画らしい映画でもある。いやそう言ってしまうと違う。映画マニアを喜ばせるようなものはなく、これはもっと生な映画なのだ。現実よりも生な映画、現実よりも生な詩という意味での上記のことばなのだ。

 もちろん私はアートの側にいる人間として作品をつくっているので、映画とアートは全く違うと言ってもいいのですが、そもそも西欧的退廃の極みにあるデヴィッド・リンチの作品に魅かれてしまう自分はなんなのだろうと考えこまざるを得ません。これは今に始まったことではなく、そもそもアートということばからすでに問題は出てきているのでしょう。もちろんあらゆるアートが文化が成熟したところ、退廃と紙一重のところに生まれるものとしても、です。

 それほどに私たちがおかれた震災後の状況は政治も含めてとてもきびしいものです。望みなき状況と言ってもいいかもしれません。(注2)

 だからこそここで生まれる特有の作品もあるのでしょう。その一つの証明として園子温の「希望の国」はあるように思います。このパンフには1955年制作の黒澤明の「生きものの記録」のことが載っていました。やはり通底するものがあるのです。私の「大きいゴジラ、小さいゴジラ」でも1954年の映画「ゴジラ」をとりあげました。また近美の「美術にぶるっ!」展でも一階では全室を使って1950年代をとりあげています。これは壮観です。単なる美術を超えて、1950年代が気になる理由がそこに繰り広げられているからです。

 望みなきとき、私たちは過去の歴史とつながり、そのときはじめて“つくる”ということをするのではないでしょうか。そう思います。そう思うしか全く前に進むことができないような気がします。

展覧会特集の雑誌から

*注1「CRIME & CHATIMENT」展:2009年にパリ、オルセー美術館で開かれた美術展。美術評論家のジャン・クレールがドストエフスキーの「罪と罰」から想を得て組織したもので、フランス革命後の1781年に、議会に死刑廃止法案が提出されて、それが実現した1981年までの200年を、医学、法学とともに美術の視点から見直してみようと企画された展覧会。展示はいくつかの項目から構成され、それは「なんじ、殺すなかれ」から始まり「ロマン派の犯罪の図」「裁き」「犯罪と科学」「新聞とごろつき」「芸術家、狂人、殺人犯、性犯罪」あるいは「天才、犯罪そして狂気」といったテーマや見出しが並んでいる。この展覧会のはじめの部屋には本物のギロチンが展示され、最後の部屋にはデヴィッド・リンチの前掲の絵画が展示されていた。

注2しゃがみこむこと。そう言えばこの映画の終わり近くで、主人公夫妻はしゃがみこむ。倒れるのでも横たわるのでもなく、しゃがみこむ(植物的)。その日本的動作には、”絶望”というより”望みなき”ということばをあてたくなる。