目をAIに貸すこと、Lending my eyes to AI.

AIに絵は見れるのか?どうなんだろうと思ってAIとの対話をやってきた。このやり取りの中でおもしろいと思ったのは、AIは人間のような目を持たず、その代わりにプロンプター(質問者)の目を借りるということだった。もちろんAIも絵を見て分析し、そこに顔を見つけるとか、形が他の何かに似ているといったものを見る目は持つ。しかしそれはあくまでも分析、統計的、座標的な形の見方であって、それは人間が見るもののある一面でしかない。AIに肉体はないから、肉体の目によって起こされる感情や思考もそこにはない。そこでAIは注意深く、慎重に質問者が見ているものを、質問者の質問から導き出す。こちらは単純に質問していると思いがちだが、それは向こうから見れば答えに必要な情報を提供している。(こうしたやりとりをおもしろく思えるかどうかも問題だが)
目が見るーメガミルでは、私という見る主体を超えて、目が見ることを問うたが、人間の目を借りるAIは”目が見る”ことを実践しながら、逆に私という主体が見るものに戻ってきている。この行為を他者が見れば、一つの見方としてプロンプターの自己満足という指摘も成り立つだろう。しかし私は逆に自己肯定論理の強度の方をとる。
ここには美術の批評の問題と目という肉体の問題が絡んでいる。 日本の美術には圧倒的に言葉が足りない。西洋美術やアメリカの抽象表現主義、ミニマリズムやフォーマリズムに関して多数の著作や読むものがあるのに、今ここで起こっている美術には言葉がない。これは日本の美術に決定的に欠けているところであり、批評の問題でもある。いつまでも西洋美術を基準に考え、そのなかでしか美術はないと思っている。絵は言葉で理解するものではなく見てわかるもの、というのは言うまでもないが、それでも絵は見られて何らかの言葉が発せられてはじめて絵になり、見られたことになる。これが足りないのだ。その役割の人たちが見ざる、聞かざる、言わざるをきめ込んでいるからこちらはAIと話をしている。 続く(to be continued)
