形という父権性 The shapes in the painting appear patriarchal

形という父権性 The shapes in the painting appear patriarchal

Memory – Four people laughing
上塗りされた元の絵「記憶ー四人が笑っていた」

形は父権的なものになりがちだ。必要以上に写実に描く絵などはその最もいい例で、美術史の写実の始まりの頃とは違ったものになっている。クールベの写実は、特権階級の「理想化された形」を壊し、泥にまみれた「物質としての現実」を提示するための革命の手段であった。 それに対して、日本的な(行き過ぎた)写実が「父権的」に見えてしまうのは、それが対象を理解することではなく、「対象を細部まで支配し、説明し尽くそうとする規範」になってしまっているからである。そこでは色彩も形に従属するしかない。                     「デッサン(形・理知・父)」と「コロリス(色彩・感情・母)」の優劣論争はルネッサンスの時からあるが、これを現代に敷衍し対比的に言うと、父権的写実は形の境界線を明確にし、秩序を与え、世界を「正しく」固定しようとする意志であるが、母権的なものは形を壊しながらも別の「包摂的な秩序」や「情念」で鑑賞者を絡め取ろうとする、もう一つの引力である。    では形の父権的な作用を嫌って母権的なものとすれば問題が解決するかと言えば、これはそんなに単純な問題ではない。具体的に言うと、色彩が完全に勝利して形が消滅してしまえば、それは単なる「心地よい抽象」になってしまうからだ。逆に形が勝てば、それは「退屈な説明」になる。近代絵画は色彩=えのぐというタームを入れ込むことによって形の父権的な作用を弱めてきた。色彩は感覚的でアナーキーなものだから、形を作る方向をともすれば壊し解体する。だがそこでできる形は父権性を失って色彩と平等なかたちになる可能性を秘めたものだ。父権的な形は解体されなければならない。「形」という権力に「色彩」というアナーキーな存在は挑み続けていかねばならない。