C通信 89: 死者の町 ネクロポリ

第二章 死者の町 ネクロポリ Necropoli  ネクロポリは小高い丘の上にあり、あたりはしーんと静まり返っていた。  何もない空間に道が浮かんでいて、それをたどっていくとネクロポリの入り口に着くようになっている。ウサギの前を、無言の死者たちがうねるような列をつくって町のなかへと入っていった。西のかなたにあるこのネクロポリは圧倒的に戦争の犠牲者が多い。戦争とは公の殺しあいである。だからその死者たちは、殺したほうも殺されたほうもその理由を知りたがっていた。生者の戦争の論理は…

C通信46 がらんどう Mr.U and the empty eyes

そこの人たちの眼はがらんどうで、そこから向こうの海の風景が見えた。 The eyes of the people there were blank, and from there I could see the seascape beyond.

C通信54. 死もまた生の夢を見る Death dreams life dreams death

C通信

生はたえず死の夢を見る。それと同じように死もまた生の夢を見る。最後の瞬間に、その人の生全体が、死から見た夢だったと気づいてもすでに遅い。それを証明する手だてはないし、その必要もない。夢は物理学の多次元のように、そこに折りたたまれたひとつの次元なのだから。 *C通信総覧はこちらから⇒ https://nagasawahideyuki.net/news/2825.html

宇宙市民、宇宙の卵 [The Painted Bird] [About Endlessness]

日常

   コロナ禍のなかでは時間が倍速で飛んでいく。10月に入ってようやく車で横浜に行き、ヨコトリを見ることができた。今年はビデオ作品が充実していた。パク・チャンキョンの「遅れてきた菩薩」、アントン・ヴィドクルの「宇宙市民」などが強く印象に残った。前者では白黒反転の長編動画というのが思いのほか鮮烈で、放射能と菩薩の話にピッタリあっていた。後者に関してはフョードロフのロシア宇宙主義というものがあることさえ知らなかったが、「これが宇宙である」と新作の「宇宙市民」を見るうちに、ヴィド…

ひと息

日常

 佐々木敦さんの『批評王』が出ました。(工作舎出版) 扱っている分野は思想、文芸、音楽、映画、演劇からアートまでと多彩。思うに佐々木さんはおっそろしく高性能でスピードが出るタイムマシンをもっている。実はぼくももっているのだが、こちらはぽんこつなのでいいなと思っていたら、あるときマシン同士の出会いがあった。 本の「批評王」と言う名前は、アジアの見知らぬ国の王みたいな感じだけど、実際に読むと、話を聞いているような感じなので、こちらの思考をうながされる。ぼくの2017年の展覧会「…

コロナと絵

日常

 2020年3月末にC通信1を立ち上げ、現在C通信35まできた。この時系列でのドローイング一覧はNews(お知らせ)欄から、その文章も含めた全体はブログのcategories C通信から見ることができる。  C通信が始まってから、もう4ヵ月以上も経った。“自粛幽閉”で遠出ができないままにじっとしていると、時間が経つのが早すぎてあいだの記憶が飛んでしまったような気がする。神戸の展覧会も中止になり、展示に文をよせてくれたひとたちにはひたすら御免と言うほかない。 その間、弱ってい…

展覧会の延期(*その後8月に中止決定) C(コロナ)通信

日常

 5月連休明けの神戸KIITOでの展覧会が延期になった。これは世界各地のコロナウイルスの爆発的な感染状況を追いながら、一ヵ月前から自分でも要望していたことでもあるからしかたない。何人かはこのようななかだからこそ、ひとりひとりが見に来る展覧会などはやるべきだと言う。これに対する反論もある。ぼくがとったのは個人的な理由で、感染したらアウトになる事情があったからだ。展覧会を見る立場になれば何も問題はないが、それを設営するとなると、多くの人との共同作業があり、都心に行って、新幹線に…

TRANS- グレゴール・シュナイダー <<美術館の終焉−12の道行き>>を見る

日常

 アートはどこかで現実にコミットしていなければ生きのびていけない。だから今、アートは極めてむずかしい立場に立っている。趣味の世界の「アート」は相変わらずもてはやされているが、括弧のないアートが成立するのはここ日本ではむずかしい。 ところが奇跡のようにここでアートが成立している現場を見た。神戸TRANS−展でのグレゴール・シュナイダーの&lt;&lt;美術館の終焉−12の道行き&gt;&gt;と題された展覧会。全部で12箇所の展示があり、それぞ…

シュノーケル

日常

ぼくが今でも毎年シュノーケルをやり続ける理由。それはひとの時間と接する死の世界を体感できるから。 海のなか、色とりどりの珊瑚に荒波が押し寄せ、さまざまの魚が群れ集うそこがどうして死の世界なのか?黒々とした海草が、海水の流れにいっせいになびくのはたしかに不気味だが、どうしてそれが死の世界なのか? その理由は、海のなかではひとは生きていけないから。シュノーケルはひとが生きていける世界と生きていけない死の世界との境界にある。むこうの世界に棲む生きものは、逆に海から出たら生きていけ…