コロナと絵

コロナと絵

2020年8月2日

 2020年3月末にC通信1を立ち上げ、現在C通信35まできた。この時系列でのドローイング一覧はNews(お知らせ)欄から、その文章も含めた全体はブログのcategories C通信から見ることができる。

  C通信が始まってから、もう4ヵ月以上も経った。“自粛幽閉”で遠出ができないままにじっとしていると、時間が経つのが早すぎてあいだの記憶が飛んでしまったような気がする。神戸の展覧会も中止になり、展示に文をよせてくれたひとたちにはひたすら御免と言うほかない。

 その間、弱っていた植物を植え替えたり、食料危機のために実のなるものを植えたりして身の回りに緑が増えた。これらは恐ろしく成長が早い。時間を体現しながら変わっていく。なのに人間の時間は止まったようになっている。人と会って話す機会がない。だからせめて体の細胞だけは活性化しようと運動に励む。犬の生活か、チャプリンではないけれど。

 若い友人は「コロナでかえっていい」と言う。相変わらず抑圧、不自由な状況は変わらないから、このぐらいでちょうどいい、と言いながら出勤している。

 同世代のIさんは電話でいきなり「<未来の幽霊>の絵はまるでコロナだね」と言う。人が見えるけど見えない、あるいはその逆、これもこれからずっと続くのだろう。

 別の友人はメールでまず生死を確かめる。お互いに生死を確かめあって「じゃあ、また」となる。つながらなかったらさようなら。

Kさんからは新聞に彼の作品が出ているとの連絡。確認して「また一緒に飲もう」と言って別れる。いつになるのだろう。

 そんななかでドローイングを始めた。2月、3月になって奇妙な、ときに恐い夢を見ることが多かったのでそれを鉛筆で描いてみようと思い、さらにプリンターで黒く暗く、少しぼかしを入れて出力した。今も続けているがどこまで行くのか自分でもわからない。コロナがあるかぎり、それがスフィンクスのように謎を吹きかけて来る限りやめられない。

 それに今はなかなか絵(Painting)が難しい。

 たとえば「コロナが収まったときにゆっくり絵が見れると言いね」と誰かが言ったとしても、本当のところそんな絵は見たくない。あるいは絵を見ても自分がおもしろいと感じなくなったということか。絵はほとんど死んでしまったように思う。あるのは個人的感情の吐露ばかりでほとんど趣味に近い。

 この数年で絵は恐ろしい勢いでリアリティを失ってしまった。そこに個人的な感情がいくら強いものであろうと、そのひとの趣味でしかないものを見せつけられてもこちらは鼻白むだけだ。そういう事態が続いている。

 もっともこれは今に始まったことではなく、震災、原発後に顕著になったことでもある。絵画=芸術という思いこみでやってきた絵が、震災・原発でそのよって立つ根拠をすくわれた。モダニズムの流れのなかで現代の絵というものが成立し、それが材料も含めて成立していることが、そのまま純粋に(無自覚に)自分たちの根拠になっていたが、ここでもう一度その根拠を問われたような感じだ。

 日本の美術教育も、日本の絵画の研究や再発見を絵画の問題としてとりあげて来なかった。今でこそ「奇想の系譜」の影響もあり、それらの絵画がよくとりあげられるようになってはきたが、いまだに日本画と油彩画の区分が教育上でもはっきりと分かれているように、自分たちの歴史を世界につなげることに失敗し続けている。*註

 これらの状況は、日本の防衛が肝心のところでアメリカに委ねられ、日本がそのことを意識しないように、とにかく“平和”を唱えることに似ている。この“平和”には核の傘を含む防衛費という莫大な金がかかり、しかも対米追従が当然となり、国として未だに独立できないような“平和”なのであるが、それは意識の下にしまっておいて、ひたすら平和主義者としての“平和”を唱える。

 そうしたなかにあって、どの分野も政治性から逃れることはできないのだが、「アートは自由であり、政治性とは関係ない」といった言説がまじめにはびこってしまう。これも囲われた“平和”である。誰かが言ったように世界が不自由なのに、アートだけ自由というわけにはいかない。平和も自由もそこにもともとあるわけではなく、自分たちがつかみとって初めて存在する。

 絵画が今困難というのは当然のことで、もともとここには絵画なんてなかったと言ってもいいのかもしれない。そして現代のアートは、だからこそその根拠を求めてさまざまなひとたちがアプローチしてきた。それはいつも成立するかしないかの瀬戸際にあった。そうした根拠を求める実験も今は遠くなり、個人的な思いこそが根拠とばかり趣味の絵がアートとして広まっていく。

 一方で震災、原発事故が、もともとあった美術のその脆弱な根拠を粉々に砕いてしまった。だからいま、絵は成立すること自体が難しく、だれもがその制作の困難さに直面しているのではなかろうか。いや、実際、絵なんてなくなってもよいのかもしれない。

 まず始めに絵画ありきでは何も始まらない。ないところからやって、やっぱりないということになっても、あるいは偶然できたとしてもそれでよいのだ。それは絵画論も画廊も、ひょっとしたら美術館もいらないところで始まるしかないのかもしれない。

註:日本画の問題点、それは伝統を現代のものとして蘇らすことができないところにある。その研究はあまたあっても現代に即した解釈が少ない。勉強はしていても今を生きていない感じだ。これは日本画だけの問題ではないと思うが、伝統は今の解釈があってこそ更新される。

日本画の解釈の問題については武蔵野美術大学出版局出版の「絵画組成」という本に<日本の絵の時空>という題で書いた。参考まで。