ひと息

ひと息

2020年9月7日

 佐々木敦さんの『批評王』が出ました。(工作舎出版)

 扱っている分野は思想、文芸、音楽、映画、演劇からアートまでと多彩。

思うに佐々木さんはおっそろしく高性能でスピードが出るタイムマシンをもっている。実はぼくももっているのだが、こちらはぽんこつなのでいいなと思っていたら、あるときマシン同士の出会いがあった。

 本の「批評王」と言う名前は、アジアの見知らぬ国の王みたいな感じだけど、実際に読むと、話を聞いているような感じなので、こちらの思考をうながされる。ぼくの2017年の展覧会「未来の幽霊」展のテキストは第五章の「批評の荒唐無稽」の最後に入っている。                                              またもうひとつの佐々木さん著『これは小説ではない』では、第三章「写真は小説ではない」の「心霊写真」と「ヴァナキュラー写真」のなかでも原田裕規さんとともにとりあげられている。こちらは第一章「ラオコオン・エフェクト」のなかで、レッシング、グリンバーグをふまえて「さらにさらに新たなるラオコオンに向かって?」という項目があり、興味を引く。

そして以下はそれらに刺激されて書いた一文。

 

 アートの根っこはものとヒトがどう触れあうのか、というところにある。ものとは地球上の物質であり、たとえばラスコーや太古の洞窟壁画でいえば、そこで溶かれた顔料としての鉱物や洞窟のでこぼこした岩の面をさす。材料以前のもの、それとヒトが触れあうことによって、外で見ている現実とはまた違った不思議な世界(像)を見ることになる。これは生きるための道具をつくることとは全く違った回路であって、まるでマジックのように出現した世界(像)にたいへんな驚きと興味をもったことだろう。

 絵具、筆とキャンバスというのもその延長上にある。いまでは画材と呼ばれるが、物質には違いなく、そこからできるものもやはり物質であり続ける。

対するヒトは何かと言うと、それはからだである。からだが絡むことによって物質は単なる物質ではなくなり特異なものとなる。

 四角い物体とからだが格闘している。

 そうやってヒトは絵というものをつくってきた。

 そしていまは2020年。ヒトは人間として進化してからだを失いつつある。あるいは失う数々の訓練をしている。自動運転、オンライン会議、オンライン授業、オンライン鑑賞、e-スポーツ、パソコン作業、データベース検索その他たくさん。

 そうなるとアートも影響を受けざるを得ない。からだがなくなる分、それに触れるものも少なくなり、その物質的変貌や想像も少なくなるのは必死である。

絵をつくることにはえのぐなどへのフェティッシュを含むから、こうしたなかではそれはリアリティを失っていく。

 さて「C通信」のドローイング。これは現在のところウェブ上の発表にすぎないが、もとになったのは出力したプリントである。そのまたもとには紙と鉛筆が擦れてできるドローイングがあるのだが、ここには鉛筆特有の銀色の質感がある。しかしまだ物質として変貌する必要があり、写真からPhotoshopで手を加えてプリントしなければならない。かなり暗めの素材のうえに、顔料インクがマットブラックだからその物質感に独特のものがでてくる。その微粒子状の質感が紙質感も変貌させ、表面の距離感をなくしてくれる。

 暗くするのは黒くしたい(Paint it black)のと、物質感を出したいのと両方ある。そうしてできあがったものは前回個展の「25年あと(未来)の記憶」でも発表した。

 そして今回は、何というか皮肉にもオンラインの発表(?)になってしまった。作業場にはおびただしい試作プリントがあるが、ウェブ上では画像はあっても物質がない!べとつきのないさらっとした漆黒感や表面不明の距離感がない。うーん不満、と言えば不満である。といって展覧会のあてもない。

 ま、いいか。

 ウェブ上での発表とは、こういうことを含んだうえでのことなのかもしれない。それを見るほとんどのひとが、文章があるひとつひとつを見ずに画像一覧を素通りしようとかまわない。現物を見なくてもかまわない。からだと物質がないと言ったけど、昔のようにその一義的な密着を求めているわけではないので、さらりと見るスピード感は必要なのだろう。

 ぼくはオンラインなんとかもオンライン鑑賞なるものも大嫌いだが、ふいに眼に飛び込んでくるものは好きだ。超スピードで消費されていく画像のなかに少しでも引っかかるもの、眼に印象されるものがあれば、それがからだと物質があるということなのかもしれない。かすかなふれあいでいい。

 ぼくらはサイボーグ、あるいはレプリカントになりつつあるのだから、今さらかつての人間のように感じようと言っても無理なこと。それよりもそんな存在がかすかなこころの揺らぎをもってしまうことのほうが重要なのだ。

 物質感やからだがないことが逆にかすかなこころを感じさせる。そんな逆説に直面している。それは懐古なのか残念なのか?それともあたらしい事態なのか?