コロナ禍のなかでは時間が倍速で飛んでいく。10月に入ってようやく車で横浜に行き、ヨコトリを見ることができた。今年はビデオ作品が充実していた。パク・チャンキョンの「遅れてきた菩薩」、アントン・ヴィドクルの「宇宙市民」などが強く印象に残った。前者では白黒反転の長編動画というのが思いのほか鮮烈で、放射能と菩薩の話にピッタリあっていた。後者に関してはフョードロフのロシア宇宙主義というものがあることさえ知らなかったが、「これが宇宙である」と新作の「宇宙市民」を見るうちに、ヴィドクルの作品自体に興味をもった。これらの作品は家からでもアクセスして見れるようになっていたが、やはり会場で実際に見るのとでは“こんなにも”と思うほど違っていた。ヴィドクルの作品会場では、床に座いす(ソファ)のようなものが置いてあり、そこでゆったり大きな画面を体験することが「宇宙をこの地球のこととして」感じるのに効果的だったが、家ではモニターも大きさが限られて体験とまではいかない。コロナ禍でのアートを見る(体験する)ことの重要性を考えさせられた。
ヨコトリで外出する際のコロナ対策注意点もわかってきたので、今度は電車で外出し、アーティゾン美術館へベネチアビエンナーレ日本代表の帰国展を見に行った。期待の下道さんがどういうポジションで参加したのか気になっていた。全体の展示を見る。うーん、これはどうも違うかな…というのがまず思ったこと。展覧会案内には<「Cosmo-Eggs|宇宙の卵」は、キュレーターの服部浩之を中心に、美術家、作曲家、人類学者、建築家という4つの異なる専門分野のアーティストが協働し、人間同士や人間と非人間の「共存」「共生」をテーマに構成されました。>とうたってある。リサーチベースの展覧会で、異なる分野のメンバーが共同でやったのだからさぞかしおもしろいものができたのだろうと思っていた。でも見た感じでは、それぞれの分野が力を発揮して学習的なまとまりはあるものの、アートとしてのめまいが感じられるようなものではなかった。たしかにバルーンから送られた空気で音楽を奏でる装置やその建築構造など工夫がこらされているが、それらがかたちになったときにどうなのだろう、憩いの場になりすぎてはいないか?ここはベネチアの日本館で体験するのと違って、静かで閉じられた空間だからなのだろうか。入っていけなかった。またなんで壁の創作神話をフロッタージュして作品にするのかな?とかいろいろな疑問がわく。もっとアーティストに全体を任せることができなかったのだろうか?個人的には、みんなでつくったそれなりのまとまりのある世界より、アーティスト個人のもつ妄想の世界を垣間みたかったのに…と思った。
埼玉のいなかに住んでいるので、おもしろそうな映画は車で行く。11月には幸手市にヴァーツラフ・マルホウル監督の「ペインティッドバード」(異端の鳥)を見に行く。白黒のざらっとした質感、主人公の少年が経験する東ヨーロッパのどこかでおきた残酷で暗い物語の旅。ただそういう画面がずっと続くとそれに慣れてしまうのがおそろしい。重みのある映像が悲劇のイメージ画像になってしまうところが少し残念だったけど、この映画の暗さは魅力的だった。 それ以上にこの原作を書いたイェジー・コシンスキーのことが気になった。フィクション作品なのに本人が自伝小説と言ったために非難されたらしい。監督は「私にとって、本が彼自身の経験を反映しているか、そうでないかは完全に無関係だ。なぜなら、芸術作品の本質的な要素は伝記としての真実ではなく、その真実性だから。」とインタヴューに答えて言っている。 この映画を見たのは幸手市というところで初めて行った場所だ。がらんとした開店前のショッピングモールのようなところに、中年のひとの長い列ができていて、それがこの映画を見るための観客の列だとわかったときの小さな驚き。ここの土地でこの映画を見る、という風景がとくに脳裏に残った。
ロイ・アンダーソンの「ホモ・サピエンスの涙」。それにしてもこの題名はなんだろう?過去の作品からきているのだろうがよくわからない。原題は「ABOUT ENDLESSNESS」 妙な映画だ。実に妙、しかしコロナ禍のなかでこれほどぐっとくる映画もないだろう。映画の断片は「男の人を見た…」とか「女の人を見た…」「ある青年を見た…」などで始まる。なにげない日常の一コマのような人物、何しろ映画は後ろ姿から始まって、最後も後ろ姿で終わるくらいだ。はなっから映画をつくるのを放棄しているような画面だ。けれども「見た」とあるようにカメラは即物的に人間の振る舞いとその風景を見る。ただ見ているだけなのにクスクスと笑えたり、その全体の絵に見とれてしまったり、こわかったりする。ショットが肝心のところからずれていたり、そのあとのことだったりするから、ここには現実の時間とは違った時間が流れているようにも思える。もちろんこれにはほとんどのショットをスタジオでつくって撮っていることも関係していよう。おもいっきりフィクションなのだが、これが妙に生な現実っぽい。ぼくの言葉でいえば、身の回りにいる死者の視点に近い。だから親しみがあり、あちらのようだけれどこちらによく響く。国木田独歩に「忘れえぬ人々」という短編があったが、それを思い出した。ただ独歩の作品は一種の風景論であるが、ロイ・アンダーソンの作品はもっともっと焦点は人である。そういえば監督も言っている。「私たちはある意味で、みな負け犬です…」