美術館はおもしろくない?

美術館はおもしろくない?

以前のブログで沖縄県立博物館はよかったけど、美術館は人もいなくつまらなかったことを書いた。これは沖縄だけのことではなくてどこの美術館にも当てはまる問題のように思ったのでその続きを書く。 

あらためて日本の美術館はなぜおもしろくないのか?                        それは多くの公立美術館が「絵画」や「彫刻」という分類に固執して展示をしているからだ。そもそもそうした美術の仕組みは19世紀の西洋で完成した制度としての美術をモデルにしている。そこでは、額縁に収まったキャンバスや台座に乗った彫刻と「専門的な訓練を受けた作家」という枠組みが前提とされてきた。しかし、歴史を長いスパンで見れば、そのフレーム自体がほんのわずかな期間の「ローカルルール」に過ぎない。絵の始まりまで遡れば、世界にはラスコーやアルタミラをはじめとした数多の洞窟壁画があり、日本にも古墳を飾った装飾壁画などがある。これらはその時代に描かずにはいられない切実なものとしてあった。

今、手元には広島の原爆のことを描いた「原爆の絵」や戦争体験者の小松真一が描いた「虜人日記」、シベリア抑留者の久永強の「友よ眠れ」がある。これらの絵や鉛筆画、あるいはそうした範疇にさえ規定されないような描いたものの数々は、どうして美術館に展示されないのかと思う。

図録「原爆の絵」から

ラスコーの狩の中で、人間は動物の生死に立ち会ってきた。バタイユはそこに聖なるものを感じたから、洞窟の中に見たものを再現したのだと言う。それはいかにもバタイユらしい解釈なのだが、生きるために大きな動物を殺す狩という両者の生死がせめぎ合う場を経験した人間が、その様を絵にして再現しようとするのは至極当然のことと思われる。同じように戦争での各地の体験や捕虜となった記憶、そこで死んでいった人を絵に描くことも、それを絵にしたいという切実な欲求があったからに違いない。それらの絵には強烈な生者、死者への感情があり、切実さ(Urgency) がある。と同時に絵にすること、それをまのあたりにすることが、自らの生を享受することにもつながってもいる。これは近代に生まれた美術鑑賞なるものよりは、見ることの迫真力に近い。そこに生を見、死を見るのだ。どんなに残酷なもの、悲惨なものや目を背けるようなものでも絵にすることでそれは見えるものになる。ラスコーの人たちも、戦争の体験者の人たちもそこにイメージの出現を見る。つくった人は驚きをもって自らの痕跡が作り出すイメージに見入ったことだろう。

ここに漫画も加えたい。例えば新里堅進の「沖縄決戦」とか中沢啓治の「はだしのゲン」も、そこにあった戦争や原爆の前後のことを描かなければいけないような切迫感があり、先に述べた絵をつくる切実さがある。そして何よりもこれらはComtemporary(同時代性、同時代的な)なものなのだ。まさにその時代、その時に起こったことを描いている。だから見ていておもしろいのだ。(このおもしろいというのはなかなか言いにくい言葉だ。漫画の中には残酷なシーンや酷い場面も存在し、それをおもしろいとは言えないが漫画というメディア全体として見ればやはりおもしろい。これは漫画にとどまらない。藤田嗣治の「アッツ島玉砕」にしても絵の内容は残酷だが絵としては魅入られてしまう。内容意味だけで絵を解釈すると絵の本当の凄さ、魅力は逃げてしまう)                                   現代美術がコンテンポラリーなのではない。コンテンポラリーなものの中にいろいろなものがあり、現代美術もあり、それらはコンテンポラリーゆえにMuseumという場で見る価値がある、ということなのだ。つまり昔からその時代、そこに生きた人の切実な絵があり、それが美術をつくり、コンテンポラリーなものの展示場として美術館をつくってきたのだ。                                                                                            今でこそ、絵巻ものはHandscroll paintingと言われ、美術館、博物館でも展示されるようになってきたが、これらにしてももともとアートとしてつくられたものではなく、後に取り上げられるようになったものだ。漫画も絵巻ものの流れの延長上にあり、ともにコンテンポラリーであるが、“ローカルルール”に縛られる美術館はこれらを積極的に展示する論理と術を持たない。美術館に残っている名作と言われるものの多くはその時代のコンテンポラリーなものであるが、それがここでは逆転して、美術館は絵画、彫刻のあるところとなってしまっている。もちろんそれらはあってよい。ただこの国にはもともとアートという概念もなければ美術館もなかったのだから、それだけ独自の視点を持って特徴のある展示をやれる可能性がある、ということなのだ。