C通信FILE:C-TRANSMISSION DRAWING展は7月6日(土)まで(終了)     アセファル宇宙人について

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2024年7月1日

アセファル宇宙人

「アセファル」には頭がない。バタイユは言う「首長なき共同体、頭なき共同体を求めることは悲劇を求めることなのだ。つまり首長を死なしめること自体が悲劇なのである」バタイユはファシズムの荒れ狂うこの時代(アセファルの出版は1936から1939)に新たな「共同体」を考えていた。

悲劇とはニーチェの「悲劇の誕生」からの援用で、そこではギリシア悲劇のアポロ的なものとディオニソス的なものが語られ、「アセファル」ではとくに形象をとる以前のディオニソス神の側面が強調される。それは熱狂と陶酔と恐怖の神であり、常に死者の霊とともにあり、ディオニソス的な教えはそのままアンティキリストに結びついてもいる(信仰に対する生)。ニーチェは神は死んだと言ったが、「アセファル」では「人間から神を奪うことによって、人間に大きな贈り物をする。完全な孤独という、同時に偉大さと創造性の可能性という贈り物」ということになる。

これは「かたちなきものがかたちを取ろうとするときの混沌や高揚や痛み」を全面的に負うものであり、それゆえの「悲劇的人間」でもあるのだ。生の破壊的なまでの旺盛は悲劇の必然である。

「アセファル」はアンドレ・マッソンのドローイングによってその姿が描かれているが、頭がないその体の真ん中には迷路のような腸がある。頭の替わりに腸なのである。腸もまたディオニソスの象徴になるかもしれないが、単頭的なものを当時のファシズムと見立てた「アセファル」からするとこれは、反ファシズムとしての人民戦線(1935年結成)でもなく、ファシズムでもなく、それはむしろ彼らの言う「ひとつの戦争」の顕現に近いのかもしれない。もちろんこの場合の戦争とは文字通りの戦争ではなく「思考」と「行動」の間を統一するものとしての戦争という生なのである。

ここでこのアセファルの腸ははるか1万5千年前のラスコー壁画の「井戸状の空間」の壁に描かれた傷ついた野牛の腹部からさらけ出された腹わたと結びつく。それはまたバタイユがラスコーの壁画に動物同士の戦いのはての死に聖なるものを感じたこととも通じている。それに比して人間はあまりにもちっぽけである。

バタイユは「アセファル」(無頭人)や腸を借りながら、芸術が創造生成される瞬間のことを書いている。

このようなアセファルが、かたちなきものとして現代にあるとしたら、それは宇宙人として着ぐるみのなかに現われるしかないと考えた。宇宙人とはにんげん人のもうひとつの比喩であり、にんげん人の他者でもある。着ぐるみは普段はかたちをなさず、中にいる者を問わない。誰かが入ると、それはアニミズムの顕現の如く命あるものをなぞらうかたちになる。にんげん人に従属した命あるものだが、その本質は死者のキャラ化にほかならない。それはアニメーションの原点にも通じる日本文化の特徴なのだ。着ぐるみはアセファルを招く。無頭人として彷徨っていたアセファルは地球の反対側の地で、もっとも文化的に離れたキャラのうちにそのすがたを現した。