ごじら考

日常

敗北からの想像力  1954年のゴジラ映画は、戦争に敗北した側からでて来た想像力なのだと思う。もちろんそれは映画にあるように、水爆実験によって古代の巨大生物が蘇ったものとも言えるし、多くの人が指摘するように第二次世界大戦で太平洋に散った日本軍兵士の亡霊と見ることもできる。第五福竜丸に代表されるマグロ漁船が被爆した、その当時の不安の現れでもあろう。  そこから生まれた想像力は戦争に敗北したからこそ生まれてくる独自のものであって、決して勝者の想像ではない。いや、むしろ想像力とは…

カタログテキストー「未来の幽霊」長沢秀之

カタログテキスト

 「未来の幽霊」 長沢秀之 写真の父と母。26歳の母も28歳の父も現在の私より若い。二人のまなざしは、初老になった現在の私を見ている。私は自分の子どものような年齢の母と父にまなざしを注ぐ。時間が逆転する。同じ写真の6歳の私が現在の私を見ている。私がその6歳の私を見つめ返す。彼の目に私はどう映っているのだろうか? そのとき、6歳の私が見ていたものが私に送られてくる。土間に立つ母の影、玄関の樫の木の脇の丸い石、その下のコオロギの震え、隙間の多い板塀から見える遠くの景色・・・絵の…

「未来の幽霊」展

美術関連

 9月の展示が間近。2013年の「心霊教室」、14年の「絵画のなかのあらゆる人物は亡霊である」の延長上に今回の展示がある。展覧会の名前は「未来の幽霊」。  亡霊とは必ずしも過去からのものではない。現在を生きる誰もが未来の幽霊となるだろうし、未来の時間からやって来る幽霊もいる。いやそうした時間の区分け自体が意味をなさないものなのかもしれない。「未来の幽霊」という題は、絵から見えてくる感情を言葉にしたもの。昨年、栃木県美の山本和弘さんにアトリエに来てもらい、作品を見せてテキスト…

Ghosts of the Future

English Text

Hideyuki NAGASAWA – translated by Jaime Humphreys A photo of my parents. Both my mother, who was 26 when the photo was taken, and my father, who was 28, are younger than I am now. Their gaze is turned to me in the present, as I begin to gr…

対話「私が生まれたとき」奄美編

未分類

 対話「私が生まれたとき」奄美編の冊子が完成。この展示は9月の「未来の幽霊−長沢秀之展」の一部として開催されるが、冊子は先行しての発行となった。(ただし市販はしていない)  デザインは前回と同じ大橋麻耶さんで、写真をもとにしたドローイングと奄美の人たちの文章で構成されている。写真に映っている人はすべて今はもう亡き人(生きている人でもその写真のその瞬間はもう今はない)で、対話とはそうした亡き人,本当になくなった人の場合は死者、その人たちとの対話という意味である。まず始めに奄美…

赤羽史亮の絵画ームサビgFAL

日常

   赤羽史亮のgFALでの展示が始まった。(6月8日(木)〜7月8日(土)) *画像は展示前の写真 オープニングのアーティストトークは彼の仲間や多くの学生が集まり盛り上がった。ゆるさとリビドーが同居しているところが彼のいいところ。圧倒的なえのぐのエロスはどこからでてくるのか、それを彼に聞いてもあまり彼は答えない。事前の打ち合わせでも「あまり僕は話がうまくないので、質問してください」と言っていたが、こういう作家は珍しい。今まで多くの作家にレクチャーに来てもらったが多くの人が…

OILY YOUTH 赤羽史亮の展示

美術関連

赤羽史亮はすごい絵をかきます。来週の6月8日(木)にアーティストトークとレセプションがあります。(私も出る) プレスリリースのためのコメントを書いたので以下に掲示します。 えのぐが歌うこと  赤羽クンのえのぐにはエロスがある。かつて、長谷川利行のえのぐにもエロスがあり、麗子像の毛糸の肩掛けのえのぐにもエロスがあり、ゴッホのえのぐにも、マチスの薄塗りえのぐにもエロスはあった。  絵の具は肉体のものだから、かたちに屈するとエロスを失う。かたちを補強するだけの道具になってしまう。…

心臓の花

日常

「今年もハートの花が咲きました。」 「今年も心臓の花が咲きました。」 「今年もハートマークの花が咲きました」 ブログ再開。

サイ・トゥオンブリの写真と霊媒、あるいはモネとケリー

日常

 昨年、NYに行った際にたまたま見たハードカバーの画集に目が引きつけられた。「モネとケリー」というClark Art Instituteの展覧会カタログで、それは今から14年前にパリで見た「マチスとケリー」という展覧会を思い起こさせた。マチスとケリーだったら、ドローイングの線の違いが際立っているから展示としてはおもしろい、だがモネとケリーとはあまりにも違いすぎて、これはいったいどういう展覧会なのだろう?と思って、ページをめくるとそこに目を引く絵とことばがあり、私はこれを躊躇…