C通信27.- ラスコーのはらわた A trail of entrails in Lascaux

C通信27.- ラスコーのはらわた A trail of entrails in Lascaux

2020年6月1日

今から1万7千年も前のこと、ラスコーの洞窟壁画を描いた人たちは未来のことを想像しただろうか?人間が手術によって腸(はらわた)をさらけ出される目にあったり、またひとが自らのからだを自ら停止させてしまうことを思い描いただろうか?

否…けれども生とともに死は身近にあった。

「井戸状の空間」に展開された「絵」は過去の図であるとともに、どこか遠い宇宙の惑星の光景のようにも見える。時間はループする。野獣に襲われるグラディエーターの図が、現代のコロナウイルスによって襲われる貧困層のひとびとに重ねあわされるのと同じように、あるいは未来の新たな惑星での生活が、コロナスーツを着た現代のひとたちを思わせるように、この図も時空を飛び越える。

これは「狩猟の最中におきた死亡事故を記念する絵」だという。かたわらの男は野牛に傷を負わされて死んだのか。たしかに野牛は長い槍に刺され、その傷口からはらわたをはみ出させているが、槍だけではらわたが出てくるとは思えない。これは左に去る犀が突き刺したものにちがいない。でも犀が描かれたのと野牛が描かれたのは同時期ではないことは描き方の違いや顔料の特質からもわかっている。としたら、たとえば何百年か経ったあとに犀が描き足されて、野牛のはらわたが出た物語が完結したということか。あるいはその逆だとしたら時間は巻き戻されることになる。

たしかなのは犀が野牛の腹を裂き、野牛が男を殺したこと。ではなぜ野牛は見ているように描かれているのに、人間はかくもちっぽけな姿なのか。なぜ裸で勃起していて4本の手指しかないのか?

別の人はこれは狩猟中の事故ではなく、横たわって見える男はシャーマン(祈祷師)で、恍惚・忘我の瞬間を描いたものという。その箇所を引用する。

「何本かの杭は、シャーマンがいけにえの獣を連れてゆくべき天上への道を示すのである。鳥たちは補助者としての精霊であって、シャーマンはこの鳥たちがいないと、失神しているあいだに行われる空中旅行を企てることができないのだ。」—ジョルジュ・バタイユ「ラスコーの壁画」の「井」の情景の解釈から−

シャーマン(祈祷師)は何も身に付けてないようだが、頭には鳥の姿の被り物をしている。動物の姿をした人の姿は他の洞窟絵やシャーマンの姿にも確認できるという。バタイユが引いているイヴリン・ロット=ファルクの一節にはこうも書いてある。

「動物は人間よりも直接に神性と接触しており、自然界の緒力にもより近くにある。それら緒力は動物たちのなかにこそ好んで具象化するのである。」

この光景を見た人は激しく心を動かされたに違いない。動物ははらわたをさらけ出しながら死んでいくところなのだ。その姿は悲惨というよりは神々しく見えたであろう。狩猟者が見ているのは祈祷師ではなく、傷ついた野牛であり、そこから去っていく犀なのだ。人間はその瞬間に祈祷師と言う姿でしか参入できない。人間はまだ人間ならざるちっぽけな存在にすぎない。しかしながら、祈祷師はこの井戸状の空間から夢見ることができる。その夢見た世界こそがこの描かれた洞窟の絵でもある。

多分野牛はこのあと解体されて、古代の人びとの食を充たしたことであろう。ひとつの死が他の生をかたちづくる。生きることは食べることである。食べる喜びは何よりも深い。それは内蔵(はらわた)が喜ぶからだ。

「…<こころ>とわたしたちが呼んでいるものは内蔵のうごきとむすびついたあるひとつの表出だ。また知覚と呼んでいるものは感覚器官や、体壁系の筋肉や、神経のうごきと、脳の回路にむすびついた表出とみなせばよい。…」

三木成夫「海・呼吸・古代形象」に寄せられた吉本隆明の解説からの一節

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