長沢秀之はいうまでもなくタッチとストロークによるマチエールの画家である。この意味において長沢は”ペイン タリー”を絵画の主調音とするモダニスト・ペインティングの正統な継承者である。だが、このモダニズムの原理主義に留まることなく、長沢は絵画構造の原理 そのものを変革しようとする画家のひとりでもある。宇宙をミクロとマクロとの両面から解明しようとする現代物理学に倣うならば、長沢の絵画には”量子論” 的アプローチと”相対論”的アプローチとの二系統があるとみてよいだろう。これら二つが宇宙を解明しようとするのと同じく、絵画もまたミクロとマクロの二 つの方向からの探求が可能なのかもしれない。

1. 21世紀、絵画の外延

 「一枚の絵の前には椅子がいる」とは画家や哲学者を輩出したフォイエルバッハ家の一員の言辞といわれる。この事態が成立するのは作品から鑑賞者への”ほ どよい距離”が確保されたときであろう。作品から数百メートル、あるいは数キロメートル離れて鑑賞者が位置した場合、この19世紀の知性の言辞は無効を宣 告されるだろう。しかし、数千キロメートルを隔てた距離をテレヴィジオン(遠隔視)する事態に私たちが慣れ親しんでからいく久しい。これは一般に写真や映 画、デジタル通信の領域と考えられている。すなわち、何らかのメディウムを介在させた対象の遠隔視は絵画の埒外にある事態と考えられている。だが、作品と 鑑賞者との距離の長短/遠近、すなわち距離を固定した場合の拡大と縮小は今日の絵画が取り組むべき最も重要な課題のひとつである。なぜなら、絵画における 対象と鑑賞者の距離はつねにほどよい距離が前提とされているからである。このことを問題視した絵画はいまもなお極めて少ない。
 その一方、映画やビデオの鑑賞が成立する要件をみると、立ったまま鑑賞することはほとんどない。必ず椅子やソファがあることが前提とされている。この要 件を古典美学に照らせば、絵画が空間芸術であり、映画とビデオが音楽と同じ時間芸術と分類されるであろう。21世紀の今日、古典美学のステロタイプを踏襲 できるほど「像」をめぐる事態は単純ではない。例えば人気の美術館などでは、横一列に壁に掛けられた絵画群を鑑賞者は壁からの距離を等しく保ったまま、右 から左へ(あるいは左から右へ)と移動することがある。ここで成立しているのは動かない対象と動く鑑賞者の関係であるが、動きという変数を入れ替えれば ちょうど動かない鑑賞者が動かないビデオモニターの前に位置し、横にスクロールする画面をみているのと同じ事態が成立していることになる。
 おそらくこの事態を回避して気にいった作品の前の適正な位置に椅子やソファをおくことができるのは、アラブやテキサス、そしてロシアの石油王などひとに ぎりの富裕層にすぎない。私たちの前に物理的障害物がなくて大きな距離が隔てているだけならば、私たちはクルマや飛行機などの交通手段を用いて作品または 鑑賞者そのものの位置を移動させてほどよい距離を確保するか、望遠鏡などの光学機器、あるいはインターネットなどの情報通信機器を使いほどよい距離を確保 するだろう。

 長沢秀之の21世紀の仕事は絵画における距離という問題、すなわち作品と鑑賞者の関係にきわめて知的、かつきわめて正統に取り組んだ作品である。正統とは絵画の歴史の枝葉としてではなく、絵画史の幹の先端を探求しているということである。
 絵画の鑑賞要件である立ったまま見るということを映画やビデオにあてはめると、昭和の街頭テレビや現在の家電量販店の店頭などがあてはまり、そこでは十 全な鑑賞が成立しているとは言いがたいことは明白である。こうした「像の時代」において、絵画と映像メディアを比較すると絵画における時間の要件がとても 重要であることがわかる。ここでいう時間とは日常生活や歴史年表で想起されるものではなく、鑑賞が成立する時間のことであり、そこには作品との距離と鑑賞 者の動きという契機が介在する。距離と動きとは時間×速度=距離、速度=距離/時間という空間と時間の変数のことである。
 繰り返しになるが、絵画が絵画として成立するには、絵画と鑑賞者の間に障害物がない状態が前提される。障害物とは美術館における群衆、入場料という経済 障壁(建物の壁が二者を隔てる)など枚挙にいとまがない。が、ここでは障害物がまったくない場合を想定する。そこで問題となるのは、作品と鑑賞者との純然 たる距離である。

2. 絵画における距離のズーム

 メディア論的にいえば、絵画と映像は異なる。それは静止画と動画の違いでもあるのだが、アフォーダンス風にいえば、絵画が包囲光における光配列を像基体 とするのに対して、映像は自発光の放射光を像基体とする。このことは作品表面の固有性の違いをあらわしている。すなわち、絵画の表面は複製困難な固有の絵 具層をも像基体としているのに対して、映像の表面はスクリーン(銀幕=遮蔽面)、モニター、プロジェクターはそれ自体が大量生産品である。これは絵画の複 製された状態に対応する。したがって、画面の固有性という点において絵画は他の画像芸術よりも唯一性が高い。しかし、多くの絵画が印刷のみならず映像にお いても複製として鑑賞される今日、この固有性はある種のメタ基体となる。ここに私たちの絵画の問題が生起する。複製とオリジナルの差異である。通常は油彩 とインクとのメディウムの差として語られがちであるが、印刷や映像においてもより重要なのはここに拡大と縮小の問題が隠蔽されていることである。例えば、 本と読者の距離に変換された絵画は、絵画と鑑賞者の距離とは異なる次元に変換されている。ここにおいて はもはや絵画の鑑賞が成立しないというのは誤りである。ある程度、複製においても鑑賞は成立する。それはモチーフの認知の段階、形象の把握の段階である。 一方、取り残されるのは絵画固有のメディウムのみが醸成するタッチとストロークによるマチエールの知覚である。絵画の固有層(マチエール)は複製では知覚 不能である。さらに重要なのは、絵画そのものの鑑賞においても絵画の全体視においてモチーフや形象どうしの関係を知覚するときの距離と絵画メディウムその ものを吟味するときの距離は異なることである。いうまでもなく、前者は比較的距離をとり、後者は近づくからである。
 このような現代の像環境において長沢の絵画を仔細にみると、「大小/遠近」シリーズにおいてモチーフはたしかに拡大されてはいるのだが、絵画を成立させ ている画面の一次層(固有層)のタッチやストロークは拡大されていないことがわかる。二次層(複製と同じ層=情報層)では写真やコピーのように基本サイズ が拡大されたようにみえるのだが、しかし、一次層の画面全体を構成するタッチやストロークのサイズは変化していない。すなわち、純絵画層は希薄化されては いないのである。このモチーフの拡大と絵画基底の非拡大が情報メディアと絵画との決定的な違いであることを長沢の絵画はみせつける。例えば、ジグマ・ポル ケの用いるスライドプロジェクターとコピーマシーンによる拡大はドットを機械的に拡大し、透過性のある支持体を用いることによって一次層さえも希薄化さ せ、絵画そのものを透明化することを狙っているといってよいだろう。ところが、長沢の絵画における拡大はスライドプロジェクターなどを援用することなく、 画家の目と手によって、すなわち絵画的な営為のみによる拡大なのである。長沢においては絵画の固有層を破 壊することなく、拡大と非拡大が同時に実現されている。このことは絵画における拡大の問題を(縮小された)写真との関係で扱うゲルハルト・リヒタにおいて も行われている。しかし、リヒタのフォトビルト(写真絵画)は絵具と筆を使いながらも写真のマチエールに倣うものであり、長沢のよる純絵画とは志向を異に している。
 私たちは絵画的なマチエールを近くで吟味し、やや離れて全体をみるという「二つの距離」を何度も往還することによって、鑑賞を成立させている。長沢にお いてはこの身体の遠近移動をすでに絵画が内包している絵画が目指されているのである。それはポルケの映像メディア的絵画よりもより親絵画的といえよう。極 めて親絵画的である長沢の絵画は、絵画メディウムを映像メディアと相対化しうる位置を確保できていることから発している。それは絵画を映画と写真によって 批評することを可能にする。カメラにおけるレンズのズーム機能と絵画との対比が極めて批評的に追求されているからである。量的にみれば、動画と写真がかつ ての絵画を圧倒している時代である。いうまでもなく、私たちの目にズーム機能はない。その代わりに身体もろとも視覚を移動させる動物機能をもっている。こ れは絵画も同じである。絵画にズーム機能はない、と私たちは考える。しかし、そうではない。絵画にはズーム機能が付加できる。さらにいえば、写真や映画の 誕生以前から絵画にはズーム機能が生かされている(た)という事実を長沢の絵画は私たちにみせつける のである。ゲオルク・バゼリッツが徹底批判した建築原理に依存した遠近法をも含めた絵画における奥行きの醸成、イリュージョンの創出が絵画それ自体のもた らすズーム機能であることを長沢の絵画から私たちは知ることになる。例えば、長沢が「皮膜」シリーズと呼ぶサイズが複数存する丸形が連鎖した作品は、同サ イズの丸形が併置された層と異なるサイズの丸形が併置された層との重なりからなっている。それらの丸形のサイズはプロジェクターやコピーマシーンによっ て、物理的な距離と比例して機械的につくられたものではなく、画家が任意につくり出したものである。機械の目と肉眼との差異を絵画に代入するアメリカ/ド イツのポップ絵画とは異なり、ここでも長沢の絵画は最終的にみられる状態を画家の目によって計算しつくしていることによってより親絵画的である。日常的に 新聞、雑誌、テレビの映像をみている私たちにとって、点描によって色彩分割を行ったスーラよりもドットによって絵画における距離の問題を扱ったポルケの方 がより重要である。それらに対して、長沢の絵画は一見、単一層にみえる堅固で多彩なマチエールを堅持しな がら、同時に瞬間的なズームを体験させる多層絵画への変換を実現する。さらに極論するならば、ポルケが透明な支持体と輪郭線などによって絵画を強制的に透 明化するのに対して、長沢は伝統的な不透明素材を用いながらも透過性のある絵画層の積層化をもたらしている、といえるだろう。

3. 奥行きの絵画から多層構造絵画へ

 元のモチーフが何であるかわからなくなるまで拡大するリヒタとポルケの方法(もちろん両者の方法は異なる)は、モチーフのもつ情報を希薄化させることに よって具象と抽象が相反するものではなく、連続していることを知らせてくれた。しかし、それは絵画の情報層認知の問題であり、厳密には絵画固有層の問題が 回避されている。ホームレス・リプレゼンテーションではなく、ホームレス・エンラージメント(引き伸ばし)が具象を抽象に必然的に変換することを意味して いるにすぎない。それに対して、長沢はあえて拡大前の絵画(ホーム)を拡大された後の絵画と対置させる。これはエンラージメントによって、モチーフという 情報層が希薄化されても絵画はその前後で変わりなく絵画であり続けることを示すためである。
 長沢の「1999年の絵画」と「皮膜」シリーズは等価である。さらにそれらと「遠近/大小」シリーズも等価である。なぜなら、それらは情報層において目 を引く形象が丸形であるか、拡大された形象であるかという差はあるものの、タッチとストローク(長沢の言葉では「塗り」)が主調音となり、それらが堅固に 維持された全体としての絵画を成立させるという構造が不変だからである。
 また長沢の描く丸形は写真や印刷のような丸いノッペリした色面ではない。そこには硬めの筆による縦や横、あるいは斜めのクッキリとした刷毛目がみえる。 絵画以外の像メディア(情報メディアと言い換えてもよい)にはけっして再現不可能な絵画の最小因子を長沢の絵画はつねに保ち続ける。このことは「遠近/大 小」シリーズの鑑賞において、モチーフが何であるかを探る意識を括弧に入れて、マチエールという絵画の固有因子のみを鑑賞する際にも重要である。滑らかに 溶かれた絵具はその下地の絶妙な凹凸と相まって絵画固有のマチエールを生み出し、みるものをいつまでも飽きさせないからである。同様に丸い色面は印刷に よっても再現されうるが、刷毛目がカンヴァスの四辺とつねにある反発的なリズムを刻みつけるタッチとストロークは通常サイズの印刷ではけっして再現され ず、何の媒介もなしに肉眼でみたときにのみ絵画そのものの特質を主張する媒質であり、この最小単位が長沢の21世紀絵画でも強調され続けている。



 さて、色彩を論じることは絵画の受容者にとってはいつも難しい問題である。一般に明度の強い色は近くに、明度の弱い色は遠くに感じられるが、長沢の「皮 膜」シリーズにおいてはその一般法則さえも変革されているようだ。そこでは丸形が連鎖した層どうしの前後関係が絵画の深さ、あるいは厚みの醸成に同じ比重 で関与している。さらに丸形の連鎖した層どうしが編み目のようになってもたらす透過性による前後関係と丸形の明度の違いによる前後関係の積極的意味での錯 綜が絵画基底の位置を見定めにくくすることによって絵画の豊かさを増殖させる結果となっている。同系色の丸形が連鎖する皮膜層、同サイズの丸形が連鎖する 皮膜層、さらに色彩相互の対比と明度対比によって各層の前後関係は秩序を保ちながらも各層間の距離の混沌を醸成し、より絵画を豊なものにしている。
 また「皮膜」シリーズにおいてはいわば「絵画的色彩」が用いられているといってよいだろう。これは自然界にある事物の属性としての色彩ではなく、絵画固 有の色彩の力学を優先して選択されている、という意味である。それに対して、「遠近/大小」シリーズにおける色彩は私たちの日常感覚に近い「自然的色彩」 によっている。そのことによって、「皮膜」シリーズにおいて私たちは惑わされながらも楽しんでいる絵画的色彩に没入することなく、元の小さな形を保った絵 画と拡大された絵画における差異、すなわちモチーフの拡大と絵画一次層の非拡大を同時に楽しみながら、同一壁面に掛けられた作品を前に私たちの身体を移動 させることなく、絵画鑑賞におけるトリップを楽しむことができるのである。さらに併置された二つの絵画の間には不可視の無限層がまさにズームとして積層さ れていることを実感することになるのである。このことは映画フィルムにおけるズーミングのシークエンスをそのままドローイングにした作品によって検証され るだろう。


 「皮膜」シリーズ、「大小/遠近」シリーズともに軽やかな浮遊感をただよわせる長沢の21世紀絵画は、かつて映画制作を実践していた画家自身が絵画を いったん突き放して批評的距離をとりうるクールなスタンスと、写真マチエールを模した絵画のトレンドが一段落した後の必然的要請に純然たる絵画メディウム によるひとつのソリューションなのである。
 (やまもとかずひろ 美術評論家連盟会員/栃木県立美術館シニア・キュレーター)