C通信  COVID-19 TRANSMISSION DRAWING  Exhibition          

C通信  COVID-19 TRANSMISSION DRAWING  Exhibition          

2022年8月29日

コロナのパンデミックとともに始まったC通信がNo.83で完了し、その展示をすることになりました。サイトではすでに「C通信」としてアップしているものですが、約150点のドローイングと39000字のテキストからなり、会場では冊子とインデックスによって全体を見ることができます。展覧会詳細はこのサイトのNEWS、または GALLERY MoMo のサイトから。

《C通信ドローイング》の構造について

山本和弘

 長沢秀之の《C通信ドローイング》の第一の特質は、焦点のボケた画像であることだ。不鮮明な画像といってもよい。それはシャープで、鮮明で、瞬時につくられる近代主義的な画像への根源的な批評を内包している。近代の中でも産業革命による物資の大量生産と写真の発明による同一画像の大量反復は、視覚表象を言語表象よりも重視する社会へと変貌させた。国や民族によって異なる言語ではなく、非言語的なビジュアル・コミュニケーションの方が国境などの壁を難なく超えられるからである。だが、その画像の鮮明度をあえて劣化させ、一枚のスッキリとした画面がぼんやりとしたふくよかさへと解体されると、それは次から次へと新たな画像を押しつけがましく見ることを強制することなく、一枚一枚をじっくりとみる態度を醸成しないわけにはいかなくなるだろう。そのようにして、《C通信ドローイング》は見る者を、脅迫的に多数の画像を押し付けることなく、ゆったりと見ることへと引き込んでいく。とはいえ、それらは額縁に入ったタブローのように時間をかけて恭しくみることを強制するのではない。不鮮明であるというそのことによって、見るという態度自体を作品の外部から作品の内部へと取り込んでしまうのだ。

 もっとも長沢の作品系列において、像がボケていることは《C通信ドローイング》によって始まったのではない。長沢の絵画のペインタリーなストロークの初期作品も、小さな円形ドットが反復される《被膜》シリーズも、作品の物理的表面には難なくピントがあわせられるのだが、絵画に現象する表面に焦点を合わせるには相応の時間を要する。このような絵画リテラシーの熟成を長沢の絵画は常に私たちに要求してきた。

 この熟練と熟成の視覚態度は、《C通信ドローイング》においてはさらに強度をあげている。それは絵画という芸術の安全な枠内ではなく、顔料プリンターというより生活に密着した技法にもよる。生活というよりも、生と死により近いメディアといった方がよい。絵画は適正な生存期限を超えて、芸術保管機関などで丁寧な延命措置をほどこされる。対して、顔料プリンターは、デジタル技術の粋を集めたとはいえ、像とはやがて崩壊してゆく運命にあることを、より如実に示唆しているからだ。

 第二の特質はモノクロームが中心であることだ。写真や版画では珍しくはないモノクロームは、長沢にとっては反絵画的ベクトルを示している。反絵画とは、台座の上に祭り上げられた絵画ではなく、私たちの生と地続きという意味だ。長沢版《アトラス》といってもよい、《C通信ドローイング》の多方面に拡散するようなとらえどころのないモチーフも、じっくりと鑑賞すれば、その多くが死とほど近い距離で私たちを待っていることがわかる。それは《C通信ドローイング》が、文字通り感染症の地球的爆発によって、21世紀に誕生したという直接的理由によってではなく、細胞の分裂とその融合のような生命の新陳代謝の様子を、加速度をつけるのでもなく、スローモーションで見ているような様相として眼差しに突きつけるからだ。死は《C通信ドローイング》の極めて間近にある。と同時にその死は新たな生の待望によって代謝される。

 第三の特質は、言葉とともにあることだ。絵画を中心とした美術がもともと言葉や文字とともにあったものの、絵画とは文字から自立したものだという近代主義に沿って、文字は排除されてきた。このことは非言語的なコミュニケーションに非日常的な役割を付与された絵画とは異なり、長沢の《C通信ドローイング》においては、ドローイングと言語は写真におけるネガとポジのような関係になっている。つまり互いに排除しあうものではなく、互いに補い助け合う関係であり、どちらが主でも従でもない互恵的な関係にある。象形文字が抽象化されて文字という具体物になった系統発生的進化は、長沢の《C通信ドローイング》においては、鮮明な文字と不鮮明な画像との相互補完的進化となっている。鮮明な文字が文章として正確な焦点を結ぶかいなかは、ドローイングの不鮮明度と反比例の関係と見ることもできよう。長沢の言語表現が明示する宇宙的な時間の中で、個々の生は相対化される。それが死の意味である。明るい青空を擁する水の惑星である地球を一歩外に出れば、無数の太陽を擁しながらも、圧倒的な闇が支配するのが宇宙空間である。《C通信ドローイング》は、有機的な生と無機的な死とを、天体から地球を相対化するのと同じ射程を擁しているのだ。

 第四の特質は、C通信がインターネット配信であることだ。今回の展示ではオリジナルのドローイングが展示されるが、そもそも《C通信ドローイング》はインターネットを経由して液晶ディスプレイで見られるように鑑賞法が設計されている。すなわち鑑賞行為の最前景は偏光板と電極付き透明ガラスからなるので、液晶絵画の名付け親である建畠晢に倣えば、それはまさに液晶ドローイングである。液晶とは、液状なのに結晶構造をもつ物質であり、英語ではリキッド・クリスタルというロマンティックな名称をもつ。ここで気づくのは油彩や水彩などが液晶ディスプレイで代理表象されるのではなく、長沢の《C通信ドローイング》がもとより液状のような不鮮明画像でありながら、絵画の《被膜》シリーズのような結晶体でもあることだ。つまり液晶ディスプレイは、C通信の代理表象ではなく、その本質表象のメディアなのである。

 こうして《C通信ドローイング》における四つの特質をみてきたが、これらはすべて従来の絵画の近代主義的な因習を打ち破るため、あるいは、その因習をゴミ箱に入れるために動機付けられている。その後に立ち現れるのは、見ることと生きることが一致する地平なのである。                         (やまもとかずひろ 美術評論家連盟元常任委員長)