ひとウサギの部屋の前で、“ボディがない”という理由でそこに入ることを拒絶されてしまったおれたち。そうしてここは、死者が本当に死者になるための準備の場所であることを知った。

 ところで“バラを見る”とはどういうことか?

バラの情報をすべてカットして素顔のバラを見ることは可能なのか?

バラの情報なしにバラを見ることはできない。したがって素顔のバラというものもない。認識の外に存在するのは“もの”にすぎない。

情報があらゆる端末につながり、認識の網の目をかぶせる時に、“もの”はそれをかいくぐる。

 一方で肉体もまた認識の網の目にとらえられてがんじがらめになっている。“身体性”という、うさんくさいことばも例外ではあり得ない。そこでは自由な身体の解放はない。ところが期せずして、ものと肉体が出会うことはある。そこにボディが存在する。ボディは純粋無垢な肉体ではなく、自由な肉体でもない。がんじがらめになりながら、あるいはそれゆえに“もの”と出会う。

不自由ゆえに“バラを見ること”はあり得るだろう

 嗅覚を失ったひとが見るバラと、盲目者の感じたバラも等しく“見えるバラ”として存在する。

 

 

 

 あるところでは、<AIがレンブラントの絵をすべてDeep learningすることによって、今までになかった傑作をつくり出した>という研究を発表していた。オレたちはこれに飛びついた。いかにも取りあげられそうな問題だと感じた。科学から見たらきっと絵はこんなものなのだろう。たとえばレンブラントのような画家が選ぶ色彩やその彩度、明度の表現傾向を学ばせ、筆触の傾向や癖なども学ばせ、さらにその全体像への感情の組立てを学ばせ、そのほかありとあらゆる情報を学ばせて、そこから新しい見たこともないような作品をつくる。

 何というバカげた考えだろう。

 将棋という決められたルールのある世界ならこの可能性はあるだろうし、科学、天文学、工学といった計算式が必要なあらゆる世界にこのAIが学んだことは生かされ実行されるだろう。医学の分野でもあるところまでは有効だろう。ところが、それで芸術と呼ばれるような作品ができるかとなるとそれは怪しい。なぜだろうか?

 そこにはボディが介在するからだ。ボディというのは人間の体のみならず、それが触れる物質もさす。Physicalということばが肉体と物質の両方をさすようにそれはつながっている。これをDeep learningの素材としてプログラミングするのはある程度なら可能かもしれないが、最後のところで無理がある。

 それはボディには誤作動があるからである。しかもそれは誤作動とは断定しえないはずみのようなものなのだ。

 Deep learningをしたロボットが、いかに絶妙な筆使いをしてそこに色を載せようが、レンブラントのものにはならない。レンブラントの手は誤作動に満ちている。これはなにも芸術を貶めるものではない。画家はその一瞬、一瞬において、キャンバスに筆で触れ、絵具にまみれ、それらがつながっている世界を感じ取りながらそれを進めていくのだ。あらかじめ組み込まれた構想はあるとしても、その通りにはまずいかない。間違いやふとした手のぐあいから、思ってもみないものが出現する。絵を描くことは誤作動だらけなのだ。人間の肉体はそれを抱え込んでしまっているから、昆虫や動物の完璧さにはかなわないが、このマイナスは新たな可能性とも言える。もちろんDeep learningできる範囲からは外れた可能性ではあるが。

 別の言葉で言えば役に立たない、ということかも知れない。

 絵のほうから言えば、Deep learningこそ、ある範囲でしか通用しないことなのだ。Deep learningは妄想ができない。だから将棋や科学の世界ではありがたい。多くの分野で役に立つことは明らかで今後もそれは拡大する。

 しかしどうも違うのだ。もともとの発想、<レンブラントの絵をDeep learningすることによって、今までになかった傑作をつくり出した>という研究自体の発想がどうもおかしい。

 

 だがやはり人類は将来、従来からある絵のようなものを必要とはしなくなるだろう。物質との関わりが劇的に減っているからだ。肉体も減る。残るのはアンドロイドに近づいたあらたな体であり、少しばかりの肉体の記憶とそれにともなう誤作動である。しかしこの“少しばかり”をあなどるなかれ、これが消えない限り、ボディの問題は存在するのだ。したがって死も存在する。

 

 ひとウサギの部屋も存在する。

 こうして旅は続く。