…春の日に祖母はこの世を去った。それは私たちの誕生日の1週間前のことであった

 

 

 写真に写っているひとは、いまはもうここにいない。たとえ生きているひとであろうとその姿はここにはない。写真のなかの人が私を見ている、ということは、いまはもういないひとが、過去のある時点からここにいる未来の私を見ているということになる。それは不在から現実へのまなざしである。

 

 写真プリントを見ながら、かつて存在したひとやものを鉛筆でなぞりながらそれを紙に写す。同じ写真でもプリントにはまだしも物質としての肉体があるからこちらもそれに呼応しなぞることができる。デジタル情報が透明な記憶とすれば、こちらは不透明だが触(さわ)れる記憶だ。

 だから写真プリントはカメラという死者の眼から引き出されたものであるにも関わらず、不意打ち的に生と繋がる。

 

 プリントに映った影を写す。そこにできたものをなぞる。コピーのコピー。

 

 それにしてもなぜひとはアルバムを見て、その時を想起し語るのだろうか?

写真は不在のひとをそこに呼びおこすことができる。そのときひとはささやかながらもイタコやユタのような存在になり、不在のひとを現実に呼びおこすのだ。語られなかった過去の時(とき)を、いま語る。

 

 私も写真プリントをなぞることによって、かつてあった時(とき)を想起する。しかし、そこから思ってもみないものが立ちあがって来るのはなぜなのか?それはどこからやってくるのか?

 そのひと個人の記憶、ましてや私の記憶でもなく、はたしてそれは記憶と呼べるのかどうかもわからない、はるか遠くのかなたから弱々しくとどく光のようなもの…私はそれを見たい。

 

(ドローイングとテキストは冊子『対話「私が生まれたとき」神戸 −25年あと(未来)の記憶−』から)