この世は私たち生きている者だけの世界ではない。あなたのなかにはおじいちゃんやおばあちゃんがいて、かつての自分もいることだろう。私たち生者は死者とともにある。言葉や絵、およそつくられたすべてのものが、生きている人たちだけではなく死者にも向けられている。もしもそれらが生きている人たちだけのものとすると、それは単なる癒しのもの、趣味のもの、うすっぺらな美しいものだけになってその豊かさを失うだろう。

 原爆の図にしても、生きている私たちにその惨状と作者の感情を訴えるとともに死者にも向けられている。そして何よりもそれは記憶の図なのだ。想起されることによって生きているものと死者の接点=今をつくり出している。

 

 写真を見る。そこに写っているひとはすでにいない。それは亡くなったひとである。たとえ生きているひとであろうと、一瞬のときとともに亡くなっている。でもそのまなざしは、半ば永久的に未来の誰かに向けられている。

 あなたがカメラに向かって微笑んだそのまなざしは、写真プリントという媒体によって未来に届けられる。未来の誰かはその写真を見て微笑みを返すかもしれない。あなたは、今度は死者となってその誰かと対話するのだ。

 

 私はその媒体を文字通り体として借りる。

 写真のもつ一瞬をドローイングによって引き延ばす。そうしてできたものをさらに消そうとする。消し去ろうとするところに未知のもの、新たな時間のようなものが立ちあがってくる。過去、現在、未来を結ぶ一本の直線と思えた時間が混じり合いほつれ合い、あらたな別の時間が現れる。思えばもともと絵はそうしたものではなかったか。

 

 遠く離れた神戸の参加者は文を書く。それぞれの人がそれぞれのことばで過去を語る。日常を入り口として記憶を紡ぎ出す。それはあたかも時間巡りの旅のようであり、地震を語りながら地球の時間を、日常のできごとを語りながら死者の時間を語るのだが、それはめぐりめぐって私たち生きている者の時間を語ることにもなっている。ひとは過去(記憶)を語る時に今が出る。

 記し(しるし)、憶う(おもう)こと。記憶は脳のなかのどこか片隅に収まっているようなものではなく、今、ここでつくられ、そして消されていく。過去の記憶が蘇るというよりは、今つくられる記憶が過去をつくり出すのだ。そうであるならばこの今も未来の記憶によって今となりうるだろう。私たちは未来の記憶を生きている。

 

 凄まじい早さで過ぎていった時間と積もった時間。

震災から25年、生々しさは薄れるものの忘れることのできないその半端な年月は、しかし降り積もった時間を体感できる時間でもある。言葉をもって語るとはその実感をかたちにすることであり、別の時間を引き出すことにほかならない。ひとはだれでもイタコのような存在になれるのだ。おのずから出る言葉によって、亡き人をここに呼び出すことができる。

 そのとき、手にたずさえるものとして、よごれ消えかけたドローイングのようなものがあればなおよい。今に帰還するために。

 イタコはことばを発する媒介者(メディウム)として、メディウム(紙や鉛筆や消しゴム)によるドローイング(媒介物)とともにあちらとこちらを結ぶ。

 

(ひそひそと)

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