今年のムサビの卒業制作と修了制作の中から気になった作品をとりあげたい。

作品の展示から3週間も経つと、もう記憶が薄れていくのを感じるが、その中でもやはり忘れられない作品もある。そのひとつが中村葵のビデオ作品だ。

 

 

   スクリーンには作者とおぼしき身体が斜めに大きく映し出されるが、それ自体はあまり動かない。右上の赤い唇だけが頻繁に動き音声=言葉を発しているのだが、その言葉はきれぎれの言葉で通常の人間が話すような言葉ではない。その内容は、かつて自分の町でおきた蜉蝣の大発生についてのことであるが、それについてはここでは触れずにおく。

 作者によれば、一旦録画録音した映像と音声を、それぞれ1秒間に24枚の静止画、24の音声に変換し、その静止画を再現した写真を一枚ずつ撮り直して再び1秒間24枚の映像に再生、音声も同様に口で再現したものを録音、言葉に戻す方法をとっているのだそうだ。スムースな時間の流れをきれぎれに分解し、バラバラになった身体と言葉から再びそれらを再生する様子は古典的にはオシリスの物語だが、現代的な解釈をいうならば、アンドロイドが動き、“ことば”を発する瞬間に立ち会ったような気分にさせる映像作品である。痙攣的な映像、痙攣的な言葉は生と死の両者の意味を持つ。肉感的な唇の動きやその言葉は生の瞬きを示すとともに死の瞬間をも連想させる。

 ところで中村はこの作品の前に小型カメラを口に含んで、そこから写した映像作品をつくっているが、ビデオ作品の肉感性はそのころから育まれていた。

「唇からナイフ」ならぬ「口からカメラ」という今らしい作品なのである。見ることと食べるところが転倒しているが、そんな転倒は誰もができる発想ではないだろう。そこにはカメラというテクノロジーへの嫉妬と、それを肉体化しようとする飽くなき欲望があり、中村はまさに映像を“食べよう”としているのだ。この無謀な試みは、口内を通して見られたいくつかの赤い映像に象徴され、それが今回の作品の赤い唇にもつながっている。

 この作品が持つ痙攣的映像に、私は思わず「惑星ソラリス」の中の一シークエンス、10年前に死んだクリスの妻、ハリーが液体窒素を飲んで死ぬ恐ろしくも官能的な場面を思い出してしまった。しかし時代が決定的に違っている。中村の作品は物語ではなく、現実の今ある感情を現している。それはきれぎれの“ことば”でも生きていこうとする生命のけなげな意思のようなもので、むしろ来るべきAI環境、あるいはもう始まっているその環境のなかに生きることの、痛みを伴った予感なのかもしれない。

 

 もうひとつ印象に残った作品は卒制の山本明日香の作品である。まず見ていて絵画が非常にいい。と言っても絵画がそれだけ壁にかけてあるのとは違い、壁には写真のコピーやドローイングなどがピン留めされていて、その前の空間には茶色に着色された人体がある。どうやらそれは絵に描かれている人のかたちと共通性を持っていることがわかり、さらに見ていくと立体が示す人体のかたちは、実は絵になる前の、頭のなかの3D像を物質化したものだということがわかる。彼女はイメージを視覚化するのではなくまず触覚によって手でつくり、それをもとに絵を描いているのだ。人体の空洞は実際の人間をもとにしているのではなく、イメージの具体化=物質化によって生じる必然性を持った空洞なのである。というか、頭のなかの3D像は中身がなくて当たりまえなのかもしれない。

 

 

   彼女の話によれば、お盆の時の家族の集まりの写真から子供と祖父をヒントにドローイングをし、コピーをし、立体をつくる。そうして初めて絵を描くということだ。ちなみにその手順は ①写真(展示していない)②黄色っぽい絵 ③立体 ④ドローイング ⑤油絵 ⑥油絵の色を元に③の立体に着色、である。

 立体像は手で直接にさわれるものであるが、そこから引き出される絵のなかのイメージ(像)はさわれるものではなく、絵でしか成立しえない、まさに絵独特の像となる。立体において人体に絡んでいた棒状のものも、絵では震えるような線となって曖昧に描かれた像と呼応する。このようにしてかろうじて絵というものが生まれ、立体の像が置かれている重力のくびきを逃れ、壁に浮遊する。ここには絵が成立する秘密とその必然性がある。

 何という遠回りなのだろう。

 しかしまたその遠回りゆえに成立する絵の何というおもしろさなのだろう。絵はそれ自体と言うよりは文脈の中で輝く。文脈とは生きることを引きずることであり、当然、それは形式を説き伏せる。遠回りと書いたのは、実はこの形式を説き伏せる時間であり、絵画であることの必然性を見つけ出すその人なりの道に過ぎない。

 

卒制や修了制作ではないが他に2点をあげておく。

 ひとつは花崎結梨のやはりビデオ作品「ELIZA」であり、これは博士課程の中間発表として公開された。作品の完成度を目指したものというよりは研究成果の発表であるが、それでも見ていて笑える楽しい作品になっている。

 彼女の研究テーマのひとつに人工知能の人間治癒力の問題があり、今回の作品ではシロイルカのおしゃべりぬいぐるみやSiri、とりわけその原型でもあるELIZAとの対話を通じて、人工知能が会話を理解しているわけでもないのにユーザーの感情を引き出してしまうことの意味を探っていく。全体の研究テーマは対話による思考の可能性であるが、ここでは作品に即してその展開を追う。

 

 

   シロイルカのぬいぐるみに向かって「こんにちは!」という音声が流れ、おうむ返しにぬいぐるみが「こんにちは!」と応える。iPhoneのSiriにも同じ言葉。この場面が交互に現れ、音声は「好き!」「愛してる!」「話を聞かせて!」と矢継ぎ早に両者に質問、呼びかけをしていく。

 シロイルカのぬいぐるみはその言葉を文字通りに機械的に反復するだけだが、Siriは否定も含めた返答をして来るので、思考しているようにも見える。しかし実際は思考しているわけではなく、インターネットから情報を引き出し、プログラミングされたパターンで会話しているだけである。

 たとえば「好き!」には「私は愛することを許されてません」とか「Webで愛を検索しますか?冗談です!」などの応えがあり、「愛してる!」に対しては「私のことは何も知らないじゃないですか」という応えがかえってくる。

 おもしろいのは「Siriの話を聞かせて!」と聞いたときで、その応えにはSiriやアップルのこと、さらにはその原型のELIZAをめぐる話が画面上に出てくるのだが、困った質問にどう応えていいかわからないときに、「その質問にご興味があるんですね?」とELIZAが応え、質問者に肯定的関心を寄せ、共感的な理解を示そうとすることである。これは作者の研究対象でもある来談者中心療法とも言われるもので単純な否定でも肯定でもなく、質問を質問者に一旦戻して問ういわば根源的な質問なのである。そうした質問自体はかつての大学紛争の際によく言われたことでもあるが、これがELIZAにも反映され、彼女の世代に興味をもたれていることに時の経過と今という時代を感じる。

 花崎はSiriに困った質問をし、遊んでいる。そして遊びながらこうも問うている。

 「人間も同じく情報の限界があり、でも情報として新しく思える思想や発見をしていく方法ではただ入れて出しているような感じがします。そうではない方法で、自分の中に新しい思想が生まれる、という対話のやり方が、とても興味があることです。」

 ここではAI環境の中で生まれる思想の可能性が問われている。人間は終わりを迎えているが、その終わりの始まり、あるいは何かの始まりのなかで、幾多の思考実験が行われている。この作品もそのひとつであり、それは新たな時間に対応するものだ。 

 

 最後の一点は院1の小野寛志の作品でこれもビデオ作品ではあるが、描写作品も含まれている。その様子はこうだ。

 作者の小野は女性の裸のモデルを見て木炭デッサンをする。モデルさんは全裸だが、最も奇異なのはその人がビデオカメラを持っていて、作者の小野をじっと撮っているのだ。その小野の描く様子がこの二人とは違った第3の位置で映し出される。そして小野の描いたデッサンには女性のモデル、顔にカメラを装着した姿があり、壁にはすでに描いたそのデッサンが掛けられている。

 見る側はこの三角に位置するそれぞれの関係を想像するが、実際にはモデルさんも描く作者もいない。見えるのは、ひたすらこちらとイーゼルのデッサンに視線を写す作者のビデオ映像と壁の不気味なヌードデッサンのみである。

 うーん変におもしろい!

 見るものが見られるものとなり、絵を描く上での力関係が逆転している。見ることの構造が露になり、作品成立過程の仕組みさえも見えてくる。ありきたりの絵を描く関係がちょっとしたことで全く変わってしまうところが、スリリングだ。あえて言うならばヴェラスケスの「ラスメニーナス」の変形版とも言えるだろう。

 私たちは周囲に廻らされた無数の鏡のなかで生きている。だがその鏡は見えない。ヴェラスケスは「ラスメニーナス」でその鏡に向かっている。鏡には絵の登場人物たちがすべて映っているのだ。しかし現代の小野はカメラに向かい、カメラに撮られている。カメラは見えない鏡として存在し、いつもじっとこちらを見ている。