NH-Retrospective-gallery Early 90’s-4
<無題>1991年 ここに描かれているのは、三つの目と、羽が生え掛けた天使的存在と、下に向かって飛ぶまたは落ちる人間(自分自身?)である。またこの絵は絵の具という物質を絵という特殊な物体にいかに変化させるかの実験の跡でもある。その時絵の具は魔術的存在となり、官能性を孕んだものになる。
<無題>1991年 ここに描かれているのは、三つの目と、羽が生え掛けた天使的存在と、下に向かって飛ぶまたは落ちる人間(自分自身?)である。またこの絵は絵の具という物質を絵という特殊な物体にいかに変化させるかの実験の跡でもある。その時絵の具は魔術的存在となり、官能性を孕んだものになる。
頭の大きな鳥のようなものに飛行術を習っている人(?)でもそのものは鳥のようには飛べない。 絵画は天の物でも地のものでもなく、その中間に掛けられるもの。その意味では、絵画を絵画足らんと模索している絵なのだろう。
90年代初期の作品に興味をもった人がいて、実際に作品を見てみたいという。倉庫に行きその年代の作品をいくつかスタジオに持ってきた。未発表のものも多いが、ちょうどいい機会でもあるので作品整理がてら、これから順次作品をポストしていきたい。90年代の作品から始めて80年代、00年代と振り返っていきたい。 <Untitled> 1993 oil& oil sticks on canvas まず一回目は1993年の「無題」作品。丸いたまのよう…
パソコンやスマホなどのデバイスは脳の延長であり、その構造を模した道具であるとよく言われる。確かに演算の仕組みやアルゴリズムは人間の脳の働きを数値化してその機能として似せているところがある。このときいつも決定的に違うのは、デバイスには2次元のディスプレイモニターがあって画像がそこに映し出されるが、人間の脳にはそれはないということだ。当たり前のことだが人間の脳のなかには2次元画像も3D画像もない。いや、これはそういうのがないから、その脳の延長としてのデバイスが2次元に画像を再現…
<OKINAWA 1944 - TSUSHIMAMARU> detail エトルスキの墓の絵は死者に向けられている。 かつてイタリアのエトルスキの遺跡をレンタカーで回る旅をしたことがあったが、もっとも印象に残っているのがタルキニアのネクロポリにある墓のなかの壁画だった。鳥や魚の狩りの図や裸のレスリングの図、笛を吹く青年がいる若者たちの楽団の図など、エトルスキの世界のあけっぴろげで楽しそうな場面が素朴な、しかし当時の世界を彷彿とさせるリアリズムではない的確…
detail その状態は数年間ずっと続いたが、ドローイングだけは描いていて、そうするなかで体に変化が起こった。C通信でも書いたが、そのひとつはいつも眠る前に多くの人の顔が浮かんでくること、もうひとつは時々ではあるが目を瞑った際にそこに直線的な光が交錯して見えることだった。後者に関しては、以前、細長い三日月のような光が走ったことが何回かあったが、眼科では「そのうち慣れて気にならなくなります」と言うだけだった。 単に妄想や視覚の障害の一種としてしまうこともあり得るだろうが、自分…
1938年から今にやってきた <1938年から今にやってきた Who came from 1938 to the present > 下絵 その写真は古本屋の片隅の箱に入れられていた。1938年何月何日の撮影と記されているが、どうしてそれが古本屋の店頭に売り物としておかれるようになったかはわからない。そのひとが1938年からここにやってきたように思った私はそれを買い求め、絵に描いた。描いたと言ってもそこに点状のえのぐのタッチを置いていったのでその写真像は半ば消…
沖縄の珊瑚の輝きの向こうに、幼くしてなくなったこどもたちのまなざしがあり、そのまなざしの向こうにはガザで殺されたこどもたちのまなざしがある。こちらを見ている。
牛が宇宙に向かって啼いている。牛は草を食み、乳をつくる。
アセファル宇宙人 「アセファル」には頭がない。バタイユは言う「首長なき共同体、頭なき共同体を求めることは悲劇を求めることなのだ。つまり首長を死なしめること自体が悲劇なのである」バタイユはファシズムの荒れ狂うこの時代(アセファルの出版は1936から1939)に新たな「共同体」を考えていた。 悲劇とはニーチェの「悲劇の誕生」からの援用で、そこではギリシア悲劇のアポロ的なものとディオニソス的なものが語られ、「アセファル」ではとくに形象をとる以前のディオニソス神の側面が強調される。…