絵画の距離
絵をつくる時の距離、これは絵を見る時の距離でもあるのですが、これに関しての論はあまり見たことがありません。山本和弘氏がわたしの絵画に関して書いた論文『無限層の絵画、あるいは豊かな絵画』がそのことに関して言及したのが2008年のこと、写真や他の分野などにとってはむしろ身近な問題なのかもしれませんが絵画に関してはあまり聞いたことがありません。しかしわたしにとっては重要な問題です。 絵に接近してかいているときに見ているものと、少し離れてみたもの、さらにもっと…
絵をつくる時の距離、これは絵を見る時の距離でもあるのですが、これに関しての論はあまり見たことがありません。山本和弘氏がわたしの絵画に関して書いた論文『無限層の絵画、あるいは豊かな絵画』がそのことに関して言及したのが2008年のこと、写真や他の分野などにとってはむしろ身近な問題なのかもしれませんが絵画に関してはあまり聞いたことがありません。しかしわたしにとっては重要な問題です。 絵に接近してかいているときに見ているものと、少し離れてみたもの、さらにもっと…
この絵は2009年に始めたものですが、完成までに3年間とちょっとかかってしまいました。と言ってもその間これにかかりきりというわけではなく、一年経って加筆、また少し経って加筆をして、できたのが2011年になってしまったわけです。こういうことはあまりないのですがこの作品は大きい(259x259cm)ということもあって落ち着く地点がわからなかったのです。その間絵を回転して現在の天地が逆になったこともありました。そして一年寝かせておいてようやく完成となりました。題名は「皮膜9」(m…
五美大展の最終日、2月24日(日)に国立新美術館3階講堂において「今、社会と美術を考える」というシンポジウムが開かれました。今年の展示の幹司校が武蔵野美術大学ということで、美術系の学科が中心となって決めたテーマです。モデレーターに田中正之教授(美術館・図書館館長)、パネラーに池田光弘、手塚愛子、中崎透、冨井大裕らの若手美術家を迎えての企画でした。 主催者側の簡単な紹介のあと田中氏がこのようなテーマを“なぜいま考えなければいけないのか”“美術に社会性はあるのか、それは社会…
桜沢如一の「無双原理・易」には次のことばが出てくる。 「西洋人は、東洋人にとって地理的には反対の世界、すなわち裏側に住むばかりでなく、思想的にも反対の世界に住んでいる。われわれ日本人が空気のように感じている精神世界は、彼らにとっては、とても分かりにくい世界であって、彼らが物質世界をいかに深く生きているかということは、われわれには完璧には分からないのではないかと思われる。」(この著は1931年にパリで出版され、今またマクロビオティックの原点として注目されている) よく言わ…
絵画は可動だから、その場特有の、その場でなければあり得ないということは基本的にはあり得ないのだが、グレコなどやはりその生きた土地トレドで見なければ意味がないという偏った考えをわたしは持っていた。だから日本でやっているのを見たくない、でもやっぱり見たい、という複雑な心理状態があってじっとしていたのだがやっぱり初日にのこのこ出かけてしまった。 今回の展示の特徴は、世界からグレコの小さい作品が集まっていることだろう。なるほどこれならここでやる意味がある。すこし宗教を離れて気楽…
「Crime & Châtiment」(罪と罰)展、「C’EST LA VIE! VANITÉS DE POMPÉI À DAMIEN HIRST」(セラヴィ、虚無、ポンペイからダミアン・ハーストまで)展、「CARAVAGGIO」展のこと 以前に書いたブログのなかで、「Crime & Châtiment 」展(「罪と罰、ゴヤからピカソまで」、2009年にパリのオルセー美術館で開かれた美術展)のことにちょっと触れたのですが、そのことへの質…
ムサビ卒展が始まりました。現場からそのいくつかを取り上げます。 下野薫子の絵画からは、展示空間にいい風が行き渡っているような印象を受ける。今までの試行錯誤を吹っ切って最後はあっさりと“いい瞬間”を捕まえた。このように絵が描けたらいい、とおもわせるストロークは少しも閉じることがない。 古賀一樹の絵はどこか変だ。普通に見かける人や光景を描いているのにどこか変なのだ。そばに近づいてみるとえのぐも妙にしっかり塗ってあって楽しめる。その変な全体がいいと思う。 佐藤貴恵の絵画には…
ゴジラの目がつくられるまで 1、アトリエにある空箱やエアパッキンでおおよそのかたちをつくる。 2、ホイップ粘土(液体紙粘土)を水で薄めて水溶液をつくり、それにちぎった新聞紙を浸して1の上にのせていく。 3、彩色する。 4、ゴジラの目が完成。展示詳細はブログの「大きいゴジラ、小さいゴジラ」を参照のこと。
①の図は庭に飛んできた百舌(もず)を記憶で描いたものです。私の頭にはその飛んで来た時の、“映像のようなもの”が残っていますがこの絵のような姿はしていません。周囲に木があってその下の枝のさきにもずがとまっていたという“映像のようなもの”があって、描かれた像(イメージ)のようなものではないのです。ところがそれを思い出して描こうとすると、目のところがサングラスみたいになっていたとか、足が短かったとかその見た時の記憶が呼び覚まされ、ひとつの像が出来上がります。それは“映像のような…
待望のアートトレイスプレス第2号が出ました。特集には山田正亮さん、インタヴュー記事として宇佐美圭司さんが載っています。 この数年の間に相次いで鬼籍に入ってしまいましたが、お二人ともにわたしにとっては尊敬する大切な師でした。さきにも書いたように宇佐美さんは大学で10年近く一緒にやってきた同僚でもあり、絵画論をぶつけた師なのですが、山田さんは画廊で知り合った画家としての先輩、そして師でした。 山田さんとの思い出はたくさんあり、そのことばにさまざまな影響を受けたひとりですが、…