私が生まれたとき・・・Part1

私が生まれたとき・・・Part1

2015年8月7日

 明日8月8日(土)と9日(日)の両日にわたって「ムサビる!」のなかの一環として「対話ー私が生まれたとき・・・」が展示されます。「大きいゴジラ、小さいゴジラ」もここから生まれました。

今回の展示の趣旨文はすでに展示情報にアップしてあるので、ここではそれ以外の文とドローイングを少し紹介します。会場ではふたつの椅子が対峙し、片方にドローイングと手に取って読む文章のコピーがありますが、それは再現できないのでそのセットをここにのせます。

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私が生まれたとき、それは40億年も昔のことですが、あたりにはまだ生命(いのち)というものがありませんでした。生命(いのち)のないものは無数に存在しましたが、それらは崩壊に向かって進むだけでした。私はまわりからからエネルギーをつくることができるようになりました。そしてなんと・・自分の複製をつくれるようになったのです。でもほんとうにそうだとしたら、私の前に私と同じような生命(いのち)があったのでしょうか?生命(いのち)の意味のひとつが自己複製だとすると当然私の前にすでに私と同じような存在があったということになります。でもその始まりの始まりはどうなのでしょう。無数のもの(・・)の存在、その無数の実験の中からまるで奇跡のように私のような生命体(いのち)が生まれたと考えるしかありません。そしてまたさまざまな環境のなかで多様な実験が繰り返され、なんとか生命(いのち)が生き延びられるようになったのでしょう。生命(いのち)にそなわっている雌雄、かたち、色などはそれが生き延びるための多様な実験の結果にほかなりません。私はここで生きられるかどうか、多様な実験をしながら次の生命(いのち)にその情報を引き継いでもらい、死んでいきます。                                                         奥山あたる

長尾さんは自分が生まれた戦争時のことを書いてくれました。そこで提示された赤ちゃんの写真(アイキャッチ画像)のみを使 用し、それと墜落する零戦機と特攻隊員のドローイングをあわせて展示しました。ここは特定の個人史にせまるものではないので提示された写真を他の文に使ったり、こちらで見つけたものを使用したりしました。学生からの文もいくつかとりあげます。⇒次のブログに続くPart2

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私が生まれたとき、戦争のさなか、春爛漫、退院の朝、桜の花びらが頬に一つ、そっと舞い降りた。満開の花の下を、看護婦さん達に見送られながら、病院を後にした。1941年12月8日、択捉島からハワイ真珠湾に向けて出撃していた大日本帝国海軍連合海軍にこの日戦闘行動開始命令が伝えられた。日本、英米に宣戦布告、太平洋戦争開戦。中国大陸、東南アジアに戦線拡大するも、1944年にいたって、反撃が激化。南方の島々が米軍の攻撃にあって玉砕していく。5月には洛陽占領、6月、中国から北九州へ初空襲、米軍サイパン上陸、マリアナ沖開戦、制空権を奪われる。7月18日、東條英機内閣総辞職、22日、小磯国昭内閣成立。8月、テニアン、グアム島日本軍玉砕。11月24日、米軍新型爆撃機B-29、マリアナ諸島より東京を初空襲。東京都国分寺の家を後に、母、姉、と長野県伊那郡に疎開。天竜川上流の長閑な田園風景の中で過ごす。家の上はB-29の通り道で、富士山めがけて日本に飛来し、中央線沿いに東に向かい、東京を空襲した。家のすぐ東に、南部鉄砲工場があり、空襲されるのは時間の問題であった。戦後、南部鉄砲工場は廃墟になっており、格好の遊び場であった。隣町の武蔵小金井市貫井北町の子供達が大勢攻めてきて、こちらは少数で、わんぱく戦争を戦っていた。剣道場に通ったが、実戦のためだった。                                       長尾重武 (1944年生まれ)