C通信 119-3  アセファルとは?かたち、ホモ属について

C通信 119-3 アセファルとは?かたち、ホモ属について

2023年11月10日

アセファルにはかたちがない。アセファル星は地球にんげん人とは違った“科学”をもち、それをもとにした高度の文明の発達によってかたちを失ったという。「あらゆる文明は発達の果てにかたちを失う」というのがアセファル惑星が最終的に得た結論で、これはC通信101でアセファル宇宙人が語っていることでもある。

アセファルは自らの星を離れ、地球に来てから石になることを決意する。アセファルの世界は地球で言うミクロの世界のようなもので、直接には見えないが粒子の波がたえず動いていて、地球上のマクロで起こる世界とは様相がかけ離れていた。それら粒子の集合体も生物とか無生物といった分別もなく、したがってにんげん人にはなにも変わっていないようにしか見えなかった。地球にんげん人は、粒子は意思をもつのだろうか?と考えてしまう。しかしアセファルはまるで意思をもった生物のように石化の練習をし続け、それを実現した。

そもそもアセファルは違った時間をもっていた。地球上で化石ができる10万年という時間を、まるで瞬時のように扱い、その時間では石化が可能だった。ただしそれは違った時間系が衝突したところにしか発生しないのでまさに一瞬のできごとだったが、その衝撃は計り知れないものがあった。こうしてアセファルはゴム手袋や戦車、二宮金次郎像などを一瞬のうちに石化し、そのなかに入り込んだ。

アセファルとかたち:地球上ではかたちがあるものは何かの用途があり、用途がなくても何かの意味をもってそこにある。身の回りにある道具やもの、そして生物もそれは生命としての道理をもったかたちとしてそこにある。石はどうなのだろう?石にかたちがあるだろうか?アセファルはかたちがないという理由から石になろうとしたのだろうか?石には何の用途も意味もない。粒子の集まりに過ぎないが、その粒子が地球の時間の謂れを露出させている。そのかけらは偶然のもので必然性はない。石はじつはかたちがないのである。小さな石の“かたち”というものは断片に過ぎないのだ。アセファルが憧れと石化の技を習得したのにはこのような親和性があった。

アセファルとホモ属について:アセファル宇宙人は地球にやってきてにんげん人とも交雑したと思われる。今のにんげん人はホモ(人)サピエンス(賢い)に属する。ホモ・サピエンスを人類の誕生と考えるとそれは今から30から20万年前のことであり、現在もホモ属で生存しているのはサピエンス種だけである。さまざまな化石人類がいたがそれらは絶滅してしまった。もちろん絶滅してしまったネアンデルタールやデニソワ人との交雑はあったらしいが、ホモ・サピエンスがひとり残った人類であることはたしかだ。その一部がアセファル人と交流し、当然のことながら交雑はあった。そこから生まれたのはホモ・アセファレンシスとも呼ばれる新しい人類だろうか?そうだとしたらそれは賢さをやめ、脳第一主義をやめ、頭無しにボディーで生きるにんげん人の出現ということになる。