C通信25.-からだを失う Lost body

C通信25.-からだを失う Lost body

2020年5月23日

 そうしておれたちはいつしか次元を超えて別の世界にたどりつく。

オリヅルが2次元と3次元を行き来するように、人間は折り畳まれて3次元世界から多次元世界に行ってもとどおりになる。いやもとどおりにはならないだろう。不自由なからだはそこから新たなからだを見つけ出す。

 マイヨールの死を知らせてくれたTはこう語る。

「水槽(湯船)に頭を突っ込まされるんです…彼女はつぶやきながらぼくの頭を強い力で押え続ける。ものすごく苦しいところまでいって、ようやく手を離してくれる。そのとたん、ぼくはぷわーっと息を吹き返す…肺がつぶれるくらい苦しい、でもその瞬間、自分が生きていることを実感するんです」

「それ以外、生きている実感がないんですよ」

「だから月に一回か2回、そこに行ってお金を払ってそうしてもらう。彼女はそこの女王さまなんです」

そう言いながら彼は彼女の写真を見せてくれた。同棲しているとのことだった。

かつてなく幸せそうだった。

 そうして音信が途絶えて数年経った頃、Tが死んだという知らせが入った。

 彼の死には3つの特異な点があった。

そのひとつは、生の実感が感じられないことだった。自分のからだがない。水につかって呼吸できなくなる寸前までいき、ようやく自分のからだの実感を得た。しかし自分ひとりでそれをやるわけではなく、お金を払い、“女王さまにそれをされる”ことで得た実感だった。

 ふたつ目は彼女との関係が肉体関係なしの同棲だったこと。お互いがかかえている傷がそうさせた。彼女もまた家庭での虐待を経験し、そのあとも男女の関係をつくることに失敗していた。そして全く肉体関係を求めなかったTのところに転がり込んだ。

 Tはこの関係がいつまでもつづくことを望んだがそうはならなかった。彼女の孤絶はあまりにも深く、他人がそこに入りこむ余地はまったくなかった。ある日、Tが働きに出ている時に部屋で自死した。それから何日も経たない日に彼もあとを追った。これが三つ目である。

 くしくもTが命を絶ったのと同じ2004年、映画監督の押井守は「ユリイカ」*で次のように語っている。

「いつの頃から身体(からだ)がなくなってしまったのか記憶にないんだけど、つくづく身体がないなと思ったんですね。」

 対談相手の上野俊哉が問う。

「身体を捨てられないから人形にこだわるんですかね。」

 これに対し、押井は「逆に身体がないからなんだと思う。」と答え、先のことばを発言している。ちなみにこの後の発言は「そうすると、なぜ自分が人形が好きなのか、犬と暮らしたいのか、街について考え続けてきたのかということがわかってきた。戦車とか軍艦にしても全部僕にとっての身体だった。それは僕だけじゃなくて、人間にとってみんなそうだったんじゃないかと思えてきた。」と続く。

*「ユリイカ」特集:押井守 2004年4月号

 それから時代が経って、だれもそんなことは言わなくなってきた。だれもがからだを失ってきた。

 スマホも自動運転もかつてはなかった。いつでも情報はとれ、行きたいところにすぐ行ける。ある種の瞬間移動は始まっている。ただし、からだはここにおいておく、という条件のもとで。今のコロナ監禁状態がそれに先んじている。

「どこでもだれとでも、自由につながります。でもからだは小さい箱のなかに閉じ込めておいてください」

 人類は自由を求め、自由になった分だけ不自由になった。その不自由とはほかならぬ“自由になったからだ”なのだ。

“自由になったからだ”はパーツに分解されている。車では手足と目と脳の運動が著しい。全体のからだはない。eスポーツも手と目と脳の痙攣的運動のみ。

 パーツに分解するということは、新たな全体への再組織化の兆候とも言えるだろう。もうかつてのからだには戻れないのだから、パーツを拾ってからだを組み立てるしかない。オシリスとイシスの物語のように。そうしてできあがるからだは、人にもアンドロイドにも近いが、そのどちらでもない。

 そうしてひとつの感覚やひとつの運動が限りなく深い意味を持つようになる。

 波打ち際に押してはかえす水のかたちを一瞬見るだけでよい。そこからえら呼吸の太古のときを思い、肺の存在を感じ、呼吸を意識して空気を吸って吐く。

Covid-19 重症者1の報告「まるで海のなかにいるようでした」

Covid-19 重症者2の報告「人間ではなくなった感じでした…息をしているだけの生物のようで」

Covid-19 重症者3の報告「苦しくて、肺にガラスが入っているような…」

 古生代の後半、地球には地殻の大変動があり、海進と海退の巨大な干満の波が百万年から千万年という周期でおこる。海にいた魚は干潟に打ち上げられたり海に戻されたりするなかで、いつの間にかエラの後ろに肺の袋ができてきたのです。これはエラと原子肺をあわせ持った生物が遭遇した数百万年の歳月に渡るデボン紀の“波打ち際”の出来事ですが、石炭紀になるとそのあるものは故郷の海を捨てて、未知の陸へ這い上がっていき、あるものは陸に上がることをあきらめて。ふたたび故郷の海へ戻っていった……。(三木成夫「海・呼吸・古代形象」からの抜粋)

 そうしておれたちはいつしか次元を超えて別の世界にたどりつく。

オリヅルが2次元と3次元を行き来するように、人間は折り畳まれて3次元世界から多次元世界に行ってもとどおりになる。いやもとどおりにはならないだろう。不自由なからだはそこから新たなからだを見つけ出す。