再びコロナスーツを着たひとたちがいた街に入る。ところが今回はあまり人がいない。「28日後…」のロンドンの街のように…
ここでは政治というものが医療崩壊以上に壊滅的な様相を見せていた。地方政治の一部は機能していたが、それを束ねる国の政治家たちは、ただうつろな目で官僚のつくった声明を読み上げ、意味のないことばを発していた。
人に届くことばを知らないかわいそうなひとたち、この人たちは長年にわたって制度上のきまりは仕切ってきたので、そうしたことばは発信できたが、対話、議論、論戦などは全くしたことがなかったので、生身の相手に届くことばを本当に知らなかった。そのような政治家を選んだひとたちにも責任はあるが、そもそも政治自体が、ここでは他人事で自分たちのものになっていなかった。
あるいは単純に、その人たちの「幸せになりたい」という欲望が少なかったのかもしれない。
最も致命的、決定的なことは政治が想像力を持たない、ということであった。危機に際して今までになかったことや新しい工夫、思い切った賭け(投企)ができない。たとえばお笑いの人は、普段からバカなことを言って人を笑わせているが、こうした想像力は緊急時にとんでもない発想を生むちからになる。でたらめや遊びがいつか役に立つかもしれないことを彼らは知らない。
ことばが確かに他の誰かに届いているひとたちと届いてない人では、何というか表情が全く違っていた。たとえば引きこもりの人でも、ことばがなく悲痛な表情を面に出すことはあるが、テレビに映る政治の人たちはそれさえもなく、一種独特な無表情を曝していた。
平時では“国民の安全を”と言い、仮想の敵国をちらつかせて脅しに使い、自分たちに都合のいい方向をつくっていたが、有事の際の本当に安全が必要な時に、みんなを納得させることばと具体的な方策がとれなかった。
これは笑えない喜劇である。しかも事態が進展するにつれてこれらの施策は狂気を帯びてきたのだった。あまり意味のない布マスクを配布するために多くの時間と費用を使いはたし、さらに配布の不備が出てもそれでも平然としていた。ことばを壊してしまったから、実行責任も説明責任もしないことに何ら疑問さえ感じていないようだった。
こうした感覚はあっという間に伝染し、それがさまざまな地域で狂気ともいえる特異な現象として現われた。そこに人が来てはまずいという理由で、咲いているチューリップやまだ咲かないバラの蕾まで切り取るひとたちまで現われ、他の地域から来た人に石を投げつける者もいた。これらは“フクシマ”の時も現われた現象で、ことばが届かない恐怖と不安のなかで、一部のひとたちが起こした行動であった。
未来に生きる子どもたちは、このような大人の行為を泣きながら見ていたことだろう。想像力のなさはこうしてウイルスよりも早く伝染していった。