ヒュー・スコット=ダグラスの展示を栃木県立美術館に見に行く。RIMG0202

 倒産寸前の映画館から買い取ったという35㎜劇場映画の予告編映像の断片に手を加えた映像が薄暗い会場に一枚ずつ映し出される。映画という物語の一コマは人であったり、ものであったり、何かの表面であったりとさまざまだ。そこに映画として存在していた物語の断片を一瞬見せて消えていく。暗がりの中で4台あったプロジェクターの前に座り、漠然とこの作品を見ていると“ああ、もう人間は終わったのだ”という思いが頭のなかをふとよぎる。

 そうかもしれない、人間の物語は終わったのだ。映画好きならばその中身を覗きたい気分になるのだが、そうなればなるほど一枚のスライドに写っている人間の営みやその歴史が、もう終わったことのように見え、どこか遠いところで起こった出来事や物語の終焉を強く感じさせる。それはとりもなおさず、それを見ているここが何かとてつもないものに変貌しているということなのだ。

私たちはどこにいるのだろう?どこまで来たのだろうか?予告編という凝縮した物語の文脈から切り離して、別の文脈に植え替え、別の意味を獲得するところがスリリングで、見飽きない。

RIMG0213 写真作品では写真を撮る時の元、つまり被写体を見えるようにする光源そのものを写している。説明されなければわからないぼーっとしたかたちが反復された写真。それは撮るものは何もないと言っているようなもので、それよりは光、もっと言えば目を撮っているようなことにひとしい。本来の写真がそこにあるものや、出現するなにものかを撮るのだとしたら、これは確かになにも撮っていないのだ。ものを撮ってしまったらその文脈に乗るしかなく、それとはまったく別の文脈でやろうとしている。つまりこの写真ではここの文明の論理は通用しない。ロボットが撮影現場に紛れ込んでその意味がわからずに全く別のものに目を向けているような感じと言ったらいいのか・・・その無意味さが人間的な意味を超えて新たな意味を生む、と言ったらいいのだろうか。そういえば作家はブーケを写真のボケにかけていた。それは確かに私たちに届けられたまだ名付けようもない花束のようなものなのだろう。

RIMG0216 ダネージバッグの作品にしても根本は同じである。ダネージバッグとは荷物を輸送する際にその隙間を埋めるように空気を詰めたビニルのバッグであるが、これは送るべき本体ではない。とすると送るものはどこにあるのか?

 ここでもまた、上記の写真作品を見た時のような想像がわく。送る本体はなく、もしあるとしたら、それはこの美術館の空間であり、観客がいるこの空間であることがやんわりと想像される。だから規則的に重なりあって構成されたダネージバッグは、逆に送る本体としての歪んだ曲がった空間を想像させるのだ。

 この逆転、そしてそこにあるべきもの、つまり人間の物語であり、映すものであり、送るものであるものがそこになく、ただそれを巡る周辺のものだけがある。そのようにしてヒュー・スコット=ダグラスはアートの本体を特殊なものでなく私たちがいるこの世界のものに広げる。

 ものがそこにあるという認識の終焉。これはもちろん人間に備わっていた認識の終わりであり、その物語の終焉であろう。そこに単なる終わりを見るのではなく、別の認識による生、それを見て感じうる新たな生きものの招来を感じさせるのは、ひとえにこの若い作家の力量故なのだろう。終焉が遠い場所で起こったことのように見えながらも、そこは今のここであるという逆説によって、私たちは作品から展開される新たな時空を旅することになる。