今年も卒業制作・修了制作の季節がやってきた。学内の展示から印象に残った作品のいくつかをとりあげていきたい。とりあげる作品はどうしても絵画が中心となり、展示会場にあったインスタレーションやパフォーマンス、映像などが少なくなってしまうが、それはこの科の主要な現れとして見ていただきたい。ここではいつも絵を描くことをまず基本におきながらそこから多様な展開を模索してきた経緯がある。そして今年は例年以上に絵画のさまざまな可能性を感じることができた年でもあった。

藤浪美世

藤浪美世

 なかでも強く感じたのは藤浪美世の暴力的なまでの筆使いを持った絵画である。色気のない絵画はその 魅力のほとんどを失っていると思うが、それと反対に彼女の絵画は暴力性とエロスに満ちていて、見ている人の感情を強く突き動かす魅力を持っている。それは絵の前で制作者が混乱しているからにほかならない。

 いや、混乱のままでは絵は描けないから、そこから絵をつくるという最も生々しい行為を残してしていると言うべきか。絵に現れるメディウムはほとんど“えのぐ愛”のようなものであり、ラカンの言う対象aの作用そのものである。したがってそれは何かのかたちに寄与するものではなく、あえて言うならば欲望の原因としてのかたちでしかない。だからこそそれはただ純化する方向を拒み、言葉の導入を、あるいは安価なテープや写真の添付を許すのだ。このような絵画のあり方はやはり今までになかったものだ。

 暴力性ということで言えば、多田佳那子のグラビアから取ったセレブや芸能人を全く違ったものにしてしまう絵画も真っ先にあげられる。とにかく激しいタッチとその大きさが特徴であるが、肝心なことは、何かを表現しようとか,自分の心情を表すといったところがみじんもない点である。乾いた空っぽさがあり、そこに作者が意図できない思いがけない画面が出現する余地ができる。体力勝負の絵画であるが、それが体力のあるなしに関わらないところが救いとなっている。

多田佳那子

多田佳那子

 雑誌に出てくる人間を描いて、そのかたちをつぶしていくような秋山実生の絵画もまたある種の暴力性を持った絵画としてよいのだろうが、ここではその戸惑いや逡巡がまさって、“つぶしていくような”、と書いたもどかしさが魅力的である。誰かが彼女のことを天才的と称したが絵のつくりには確かに天性のものを感じる。つくりながら壊し、壊しながらつくる、それはそこにキャンバスという平面があり、えのぐがあるからであってそれ以前に何か主題のようなものがあるわけではない。絵として完成はしているが、この作業はまだまだ続いていくのだろう。その永遠の戦いぶりを感じさせることも魅力のひとつであると言える。

秋山実生

秋山実生 

 

国川広

国川広

 国川広の描く人間には性がない。なぜその人間に性器がないのか?一体どこの国の人間なのか?なぜ草むらに裸で立っているのか?膝から下が過剰に曲がってい て半人半獣サテュロスを思わせるのはなぜなのか?(肉体的快楽志向のサテュロスとはかなり違って草食系的ではあるが・・)

このような疑問が次々と湧いてくるが、この答えを作者本人に求めても意味がない。そのような疑問を、見る側に抱かせる絵であることが重要なのだ。その疑問は人間や裸体を描いてきた絵画の歴史をも照射しながら現在のことをも語っている。

 さてもう一点挙げるとしたらこの内田涼のデジタル時代にふさわしい方法の絵画をとりあげたい。これは方法の勝利による絵画である。えのぐを薄くにじませ、たらしこみながらそこに出てくるまだ見ぬ風景を驚きを持って見つめること。そうしていくことで自己の内面表現や心情吐露の罠から逃れている。多くの人たちがその罠にはまり身動きできなくなっているのは確かである。はたして内田はどこまでそこから逃れ続けられるのか?このことはデジタル時代の芸術の一つの可能性をさぐる実験でもある。

内田涼

内田涼

 その他ここでは書ききれないいい作品がたくさんある。学内の展示より規模は小さくなるが、国立美術館で「5美大展」も始まる。多くの人に見に来てほしいと思っている。