2014年「GODZILLA」

 アメリカの映画「GODZILLA」が公開されている。これを撮ったギャレス・エドワーズ監督が日本の1954年「ゴジラ」に並々ならぬ敬意を抱いていると聞いていたので少し期待しながら見に行った。

 「ん、なにこれ?」が、見終わった時の印象だ。アメリカではヒットしたらしいが、私はそれがわからない。

 まずゴジラの造形がよくない。太ももや足は日本のゴジラの影響を受けて太くどっしりしているが、顔が魅力的でない。制作にあたって、「犬や熊の顔を研究し、また、鷲の気高さも採り入れた。」とあるがやはりそのようなものでしかないところが残念だ。

 それにもまして「ムートー」という怪獣の登場が全くわからない。これはたぶん日本の「ゴジラ対○○」に倣ったものだろうが、この怪獣の造形もひどく、キングギドラやモスラにあった荒唐無稽さもない。

 話の筋としては、古い地球が今よりもずっと放射能が高く、その時代に放射能を食って生きていた怪獣が、その減少とともに地球の内部エネルギーを取り込むためにその奥深くに棲み、現代になって人間がつくった核を食って繁殖しようと地上に出てきた、ということになっているが、これだと1954年にビキニ環礁で水爆実験があってゴジラが生まれたという原点も消えてしまう。映画ではあの時代の一連の核実験は、実はこのゴジラやムートーというもっと以前からの生き物を退治させるためのカモフラージュだったとなっているが、これも解せない。時代の狂気でもある核開発の意味を覆い隠そうとしている、と見られても仕方ないだろう。

 やはりアメリカは核の脅威をそのくらいにしか受け取っていないのか、とも思う。ま、エンタメ映画だからいいじゃないか、とも言えるが、ことはそんなに単純ではない。その話の前にまだ幾つか書いておきたいことがある。

 わが渡辺謙さん扮する「芹沢博士」があまり魅力的でないのだ。芹沢博士という名は1954年「ゴジラ」へのリスペクトの現れではあるが、その人物が薄っぺらでどういう人なのか全く掴めない。あの「インンセプション」の渡辺謙の切れ味が全くない。これもくやしい!

 これは他の人物造形に関しても同じようなものかもしれない。いや確かにこの映画の底を流れる「親と子」の物語はわかる。芹沢は父を原爆でなくし、主人公のフォードも幼い頃に不可解な原発事故で母を亡くし、そしてまた父を原発施設のなかで亡くす。怪獣であるムートーのオスとメスの再会までもが物語に組み込んではある。(これは生物としての繁殖の問題として)。そして主人公の青年は、親とはぐれてしまった東洋人とおぼしき子を無事守りつつ、最終的に自分も妻子と巡り会うのだ。家族の大切さ?うーん、これもわからない。

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 1954年「ゴジラ」では、東京の街中でゴジラの襲来に会う母が子供をかばいつつ、「もうすぐお父様 のところへ行くのよ」という場面があった。これは戦争で死んだこの家族の父親を思い出させ、ゴジラに東京空襲をも重ねて見せる迫真性があった。「ゴジラ」には日本の首都を襲う必然性があったのだ。それは大戦の死者の亡霊かもしれないし、まだ記憶に新しい戦争の象徴かもしれないがとにかくくりかえし日本を襲う必然性があった。しかしこの「GODZILLA」にはサンフランシスコを襲う必然性がない!なぜそこを破壊しなければならないのか。

 それは単なる映画の楽しみだけのことなのか。そこで家族の大切さを見せられても、その理由がわからずに「なにこれ?」なのである。

 

 これは私たちが東日本大震災を、福島原発のメルトダウンを知ってしまったからなのかもしれない。地震や津波の恐ろしさ、原発が壊れた恐ろしさを知っているから、単純に核を食う怪物を登場させてしまうのに嫌悪感を催すのかもしれない。ムートーやゴジラがいるところは(それが食っているから)放射能がないというのも御都合主義だ。ギャレス監督は最初のシーンでアメリカの核実験の実写シーンを効果的にうまく使っているだけに、その後の展開の詰めが余計に甘く見える。ゴジラはビキニ環礁の核実験から生まれた。そこからネバダ核実験場とも結びつき、アメリカに実際にあった放射能被害も知れるはずだがそれはすっかりスルーしている。

 

 VFXスーパーバイザーのライジールは言う。「ギャレスは最初から、僕たちが創り出すものは完全にリアルに見えなければならないと指示を出していた。」「サンフランシスコの街路をぶち壊していく108メートルの獣が実際にいると観客に信じ込ませたいんだ、とね」

 そう、そのリアリズムの方向が全く違っているのです。いったいいつから最先端の映画業界はそのリアリズムのためにVFX(Visual Effects)などの技術を駆使するようになったのだろう。サンフランシスコのビル群を壊し津波の迫力ある映像を撮る。確かにそれは成功してもいるのだろうが、それは“ただそこにあるものが壊れる”過程を見せつける連続であって、何かを想像する隙も与えない。これはリアリズムの考えかたの違いだろうか。

 

 

 私は1954年「ゴジラ」の根底には、文楽などの日本特有の芸や考えが反映していると思っている。これは西洋で発展してきたリアリズムとは一線を画したものである。いや、それはリアリズムというものでもなく、あえて言うならばその場の現実感のようなものだ。

 ゴジラでは、人が中に入った着ぐるみ怪獣を巨大「ゴジラ」とし、文楽ではひとつの人形に3人の人形遣いが操っているのを不自然としない感覚がある。後者では、人形遣いは見えないものとする暗黙の了解があり、なるほど劇の進展につれて本当に見えない存在にもなってくる。これは先ほどの“リアルに街路をぶち壊していく”感覚とはおよそ違っているものだ。暗黙の了解、あるいは見立ての感覚といってもよいだろう。そこにあるだけの(粗末な)ものから想像を羽ばたかせる高度な感覚である。これが芸を生み、術を育んだ。

 それと対局に物量でこれでもかと見せつける感覚は確かにある種のリアリズムではあるが、それは想像力とは最も遠いところにある。

 私たちの時代は何と遠いところに来てしまったのだろう。

 

 「GODZILLA」は、少なくとも私たちの持っているいい点を気づかせてくれるものだろう。あるいはもう失ったものなのかもしれない。アメリカのエンターテインメントの力は確かにすごく、お金をかけてそれを充分に回収できるシステムも確立されている。そのリアリズムもまああってもいい。

 でも全く違う方法でこれに対抗できる方法もあるのだ。映画だけの問題ではない。これは政治の問題でもあり、またお互いの交流の問題でもあるはずだ。そんなことを「GODZILLA」は強く考えさせてくれる。