2月25日から川越市立美術館で開催される「大きいゴジラ、小さいゴジラ」の準備で忙しい。今回はわたしが企画・総合制作のような役割を担っているので総勢30名ほどの武蔵野美大生への作品指示やコンセプトの作成などで毎日フル回転の状態だ。詳しくは「お知らせ」を参照して欲しいが、その準備のためにこのブログが少し休止状態になっているのが残念である。

  最近読んだ本で感銘を受けた『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』のことももっと早くとりあげたかった。こんな生き方ができたら最高だと思わせるまっとうな生き方がそこに綴られている。

 この辺りには“リュネット”とか“黒うさぎ”とか“そのつ森”といった天然酵母を使用しているすばらしいパン屋さんが点在する。“・・「腐る経済」・・”を書いた渡邉さんをはじめとして天然酵母パン屋さんは本当にある種の革命を起こしているのだと思う。そうしたパン屋さんに共通するのは、パンが格別うまいということのほかにパンを作ることに対して自前で培った確たる思想をもっているということだ。

 思想の詰まっているパンは堅めで味わい深い!それに比べて柔らかくて添加物の多い甘い工業製品パン、あれはパンではない。ゴントラン・シェリエにもリンデにもパンの思想がある。これからはパン屋さんや農業から新しい動きが始まる、そんな感じをもってしまうが、それはまたの機会にとりあげることにして美術に話題をもっていこう。

 

 さて昨年から恒例となったムサビの修了、卒業制作の紹介。いい作品をすべて紹介するわけにはいかないので今年はわたしが感じたこと“弱さ”を中心にとりあげていきたい。まずはその“弱くて”いいと思った絵画について。

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 図版①の作品は糸川ゆりえの作品。メディウムをたくさん使用しているからなのか全体に透明感がある。それは皮膚感覚と言ってもよいかもしれない。そこに絵具がすり込むように塗ってあり、その透明な色彩感覚と皮膜感覚が美しい。一年前まではトレーシングペーパーなどをキャンバスにつけてやっていて、それはそれでよかったが絵具には手が出なかったように思う。それがようやくというか恐れるように絵具を使っていて、その震えが直に伝わってくる感じなのだ。かたちがまだうまくできていない点はあるが、それを乗り越える可能性を感じる作品である。

 

②の作品は益田美緒の透明フィルムに描いた絵の作品。透明フィルムの向こう側に彼女がいて絵を描いてい

②

る。それを見る人はこちら側から見ている構造だ。

 ふつう、絵を描く者は見る人と同じこちら側にいるわけだから彼女は言ってみれば“裏側”から絵を描いていることになる。だから通常では消えてしまうファーストタッチがこちら側から見えてとっても変な絵になっている。自画像を含めて顔を描いているのでそのはじめのほうのタッチが汚れや傷のように見えたりしてドキッとする。彼女は絵のなかに入ってこちらの世界を見ながら絵を描いている、うーん、これはラス・メニーナスのさりげない現代篇かと思わせもする。しかもフィルムである。ペラペラの安価なフィルムに絵が成立しているのだ。ここにも“弱さ”の逆転がある。

 

 亀山恵③の作品は、紙に描いたドローイングが主体だ。キャンバスへも描いているが、これも絵具をたくさんのせていくのではなくあっさりとドローイング的にやっている。あくまでも最初のいくつかのタッチが残るように決して分厚い塗りにならないようにやっている。この爽快感がよいのだと思う。しかも筆あとが妙に生でエロティックだ。その生さは極めて私的な落書き(ドローイング)の現場にうっかり踏み込んでしまったような密やかさをもっている。それらはタブローのための下書きではなくそれ自体が独立していると言いたげでもある。これもまた“弱い”ことからの逆転の発想に他ならない。

③

 

④

 

“弱さ”の問題、それは性差の問題でもある。山口秋音④の作品はそのことを強く、意識させる。彼女は暗がりの中でちまたにあふれる「少女DVD」を壁に映し、その少女の顔や身体のかたちを追っていく。ほとんど男性しか見ないDVDを女性が見、その形を無数の線でなぞらえること、彼女が言うには「自分の行為は男に消費されて消えてしまう彼女たちの肉体を描くことで取り戻すこと」だと言う。それはまた絵画を取り戻す行為でもあるのだ。

 彼女は描いているその瞬間のものを見ることはできない。この作品は出来上がってしか見ることができない。あるいはこのことは見たと同時に反省が生まれ、純粋に描くことに影響を与えてしまうことを避ける意味合いがあるのかもしれない。コマーシャルベースにのりにくいうすっぺらの紙に無数に描かれた少女たちの像、これも弱さとなってしまうのかもしれないがそれほど絵は切羽詰まっている。それはひとりの強い主張の持ち主が力でねじ伏せるような絵画とは違って“弱美しい”作品なのである。

 

 岩崎由実の作品⑤。例えば記憶のイメージは平面なのかおくゆきがあるのか?あるいは頭で想像するイ

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メージは平面なのか立体感があるのか?それは曖昧で言葉で表すことは難しいだろう。彼女は現実に見たものにこのようなことを感じているのではないだろうか。だから「3次元を2次元に表現する」というはっきりした絵画の公式はここでは通用しない。もっともっと曖昧な領域で彼女の絵はできあがろうとしている。ひとつの木の枝にしてもそれは影のように記憶のように出てきて再現的な方向には決して進まない。一見へたである。でもそれは再現的にうまく表現しようとしない点でへたと言えるだけで、それを別の方向の絵として成立させている点ではかなりうまいと言える。そのような方向性はやはり従来の強さとは明らかに一線を画している。

 

 脇田あおい⑥の作品はマンガと絵画が合体したような作品である。マンガは簡単な線でそのキャラクターやか

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たちの意味を伝えるが脇田の線は必ずしも意味を確定しない。それどころか奇妙でこわい感じもありマンガの枠に収まっているものでないことは明瞭だ。そこに絵としての色彩や塗りが絡んでくるから画面は分裂気味になってくるところだが彼女の作品はすんでのところでそうはならない。あっけらかんとした平面性とマンガ的線が、あかるいこわい絵として成立している。それはわたしたちが生きている今の姿でもある。

 

 ここまでとりあげてきたのは女性ばかりである。たぶん今回感じたことと関係しているのであろうが男性の作品にそのようなことを感じたのが少なかったのは事実である。そのなかで唯一これはおもしろいと感じる作品があった。

 

 奥誠之は教室一室を使った展示である⑦。彼は国立競技場を特集したテレビの番組からその施設施工に携わった自分の祖父や父の仕事を知り、父の時間、あるいはそれ以前の時間へと歴史をさかのぼって行

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く。その前身である明治神宮外苑競技場、1943年にそこで行われた出陣学徒壮行会、そして戦争。展示してあるのはその想像力の翼としての施工のアンツーカーや競技場の写真であり、床には学徒出陣や零戦、戦争の絵がありふれた敷物の上に描かれている。

 その想像力の飛び方、入り方がおもしろい。“絵画の問題”からではなく、身近な家族のひとりから膨大な歴史(資料)に参入していくさまが彼の絵となって現れている。アジアにはそのような入り方をする作家が何人かいるが日本の作家ではあまりいない。とくに男性は“絵画の問題”からはいる人が多いと思うがこれは個人的な印象だろうか。しかし奥はこの展示で絵画を陸上トラックの機能に寄せて下の敷物に描いている。絵画と個人の歴史とのドッキングがそこにあり、それはそのまま絵画の新たな地平を切り開く可能性ももっている。

 この作品は今までとりあげてきた“弱さ”とは違うがもうひとつの別なあり方と言う点では共通するものをもっている。以上がわたしが今回展覧会で感じたことである。

 

 何人かの学生しかとりあげられなかったが、これはあくまでも個人的な作品感想である。修了、卒業制作展はすでに終わってしまったが、2月20日から3月2日まで上記の作品も含めた五美大展が国立新美術館で開かれるのでぜひ見ていただきたい。