今回のターナー展では“絵の始まり”を見ることができる。

「カラービギニング」といわれる一連の水彩の習作があるが、それは油彩作品をつくるための習作であって発表を意図してつくられたものではないらしい。が、この一連の作品が今回の展示の最も現代的で刺激的な部分であることは間違いない。「さあここから絵が始まりますよ」と示されているような驚きがあり、色彩の始まりのみならず、どのようにして一枚の紙から絵ができるのか、その秘密が解き明かされているようだ。

 水彩のはしの部分を見るとよい。そこには紙がある。水彩紙が物質として存在する。そのはしはこちらと向こうの世界を結ぶ橋懸かりのようなものでありここから絵が始まるのだ。まずどこかに色がおかれるのだろう、大きなタッチでそれがのばされ、あるいは拭き取られ、別の色が重なり、シミのようなものが出たり、また拭き取られ、ぼかされたりしながらいつの間にかそこに何か特別な光景が見えてくる。これはいったいなんだろう?本物の風景ではないし、かといって全く想像上のものでもない。これは何なのか?

 単に絵の具がしみ込んだだけのものではないのか。それは絵以前のものに過ぎないのではないか・・・いや、これこそが絵なのではないか?

 そんな風にターナー氏が思ったかどうかはわからないが、少なくても見ているほうはそんな絵の始まりのなまなましさをこの習作に見ることができる。これが今回の収穫である。

 そして見ていくとそれが水彩だけでなく油彩の幾つかでも実験されていることに気がつく。絵の具の塗りが絵画空間をつくる、その当たり前のことの前でその不思議さを実験しているようなのだ。晩年の「湖に沈む夕陽」(1840−45年頃)にしても、それは発表されなかった作品のひとつだから“ターナーが何を意図したのかを正確に知ることは難しい”と記されているが、この絵が現代にこうしてある以上、私たちがその絵から上記のような現代性を解釈することは正当なことだろう。他のいい油彩作品が今回は少ないが、絵の橋懸かりを見ることができる水彩習作があるだけでも見る価値はおおいにある。しかもそのパートは、他の込んでいる場所に比べて比較的空いていて見やすい。ありがたい。