美大はおもしろい。

 もしも宇宙人(地球外生物)が美大に不時着したらその生きものたちはなんと思うだろうか?何か役立つものをつくるところでもないし、かといって想像の世界だけのものでもない。

 ここはいったいなんなんだ!と思うにちがいない。思考の実験場のようなものか、あるいは頭のなかのことを実現しようと企んでいる集団がいるところと思うかもしれない。

 まあ、そんなところだろう。実際にそれはあたっているし、地球人の自分から見てもそんな実感はある。

 いまわたしは自分のクラスからでたふたりのことを思い出しながらこの文を書いているのだった。ひとりは中野くんという映画を撮ることを志していた青年のこと、もうひとりは金城くんという演劇に明け暮れていた青年のことである。

 中野くんは版画から3年次にクラスに入ってきていつも自分で撮る映画のためのセット作りにはげんでいた。教室のかなりの面積を占有していたが、そこには少しずつではあるが架空の街の模型がつくられていった。そのときわたしは「ベルヴィル・ランデヴー」のこと、とりわけアニメの“マティエール”のことなどを彼と話しあった気がする。その他にも映画についてはいろいろ話したが、結局そのセットをもとにした彼の映画はできなかった。

 卒業後ニューヨーク大学のシンガポール校に入り、何年かが過ぎた今年の夏、彼からのメールが届いた。それは、彼がひとりでつくったドキュメンタリー映画「海に生きる」(Live with the Sea)が今年のモントリオール映画祭に出品されることが決まった、というものだった。またそのあとでロンドンのレインダンス映画祭でも同作品の出品が決まったことが記されていた。メールの最後には“実際にこの手でものづくりに触れてきた経験というのは、フィルムを撮る上でも本当に強い”とあった。脳裏にセットづくりにはげんでいた彼の姿が浮かび上がったことは言うまでもない。

 先に“思考実験”と言ったのは、このようなことかもしれない。美大とは何かをやるためのデータベースをつくる実験場のようなところなのかな、と思う。

 

 もうひとりの金城くんは“劇むさ”に入りすぐにその中心人物となった。何回も彼の演劇(同じ意味でもあるパフォーマンスということばのほうがぴったりする場合もあった。)を見たが、何といっても光っていたのは彼が“肉体でものごとを切り開く”才能を強烈にもっていることだった。ものをつくる人はコンセプトのことをよく言うが彼は身体でコンセプトをつくれる人だった。言葉が肉体(矛盾)を持っていた。絵も描いたがそれよりも劇のなかで輝きを放った。即興劇にしてもそこには何も用意がないわけだからそのとき何を考え、どう動き、どう劇になるのか、それはスリリングな見ものである。もちろん絵をつくる中でもこういうことは起こるがそれは見せるものではない。その感想を言うなかで「チェルフィッチュ」のことなどもよく話した。外の演劇はたまに見るが学内でこれほど楽しんで見たことはあとにも先にもない。

 その彼がやはりメールで「すばる」文学賞をとったことを知らせてきた。“そういうわけで、プロ小説家になってしまいました”と茶目っ気で書いてある。そういえば少し前に大学に遊びにきた時も小説書いているようなことを言ってたっけ。うーむ、こういうこともあるか。これからの展開が楽しみだ。とにかくうれしい。

 

 美大でやる“美術”というのは美術にとどまらない。それは一部の好きな人だけがやるものでもないし、またそうした人たちの“聖域”でもない。もっともっと、思ったよりももっとそれは基本的(根本的)なところに関係している。思考実験というのはそういう意味であって思考をもてあそぶようなものでもない。

想像力と言ってしまえばあまりにも当たり前のことばになってしまう、その前の実験なのである。

そして今もそこで何かが生まれようとしている。それを見た地球外生物は何と思うだろう?