レオス・カラックスの「ホーリー・モーターズ」を見た衝撃がおさまらない。

 “「日常」に侵入する映画”と言うべきか。

 映画はドキュメンタリーでない限り、フィクションであり虚構の出来事なので、現実生活の日常とは一線を画している。それゆえ、作品がどんなに日常の風景を描こうとしてもそれはやはり映画という虚構のなかのことととらえられてしまう。かくしてもっと日常感覚を映画に入れようとするとそれは必然的にドキュメンタリーとならざるを得ない。美術が「日常」をやろうとしてもただ平凡で身近な題材を示すだけになってしまうのとどこか似ていて、虚構が虚構でありながら、この現実とひと続きの地平にあることを作品で示すのはかなり至難のわざである。

 ゴダールが「勝手にしやがれ」で、映画をその物語性の枠から解放して現実の生きている世界に放り込んだ時の衝撃のようなもの、いやそれ以上にもっとこの現実、この日常に侵入してきた映画を今回の最新作に感じた。虚構のまっただ中にありながら現実世界と地続きなのだ。

 そしておそろしく私的である。まるでプライベートフィルムのよう、一人の映画作家のイメージの生成を見ているような、言ってしまえばカラックスの頭のなかから生まれてくる生々しい映像に立ち会っているような・・・が、しかし映画を語ってもいる。すべて徹底したつくり事(死さえもが)から始まってつくり事で終わっているのに妙にリアルなのだ。ということはこの世自体がつくり事でもあるからか。

 

 ところで私たち日本人の多くは、押井守が言うように「いつの頃からか身体をなくなってしまった・・(後略)」のではないだろうか。(拙稿「サイボーグの夢」参照)それはわたし自身の実感でもあるのだが、この映画の「インターミッション」でのドニ・ラヴァン率いるアコーディオン奏者の圧倒的な肉体の存在感はなんとここのこうした感覚から遠くはなれ、感動的なのだろう。アコーディオンという楽器自体が呼吸器のメタファーみたいで肉感的だが、それを何人もの奏者が教会の中を練り歩きながらやってしまう迫力。音楽もいい、このシーンこそカラックスでなければできない映画そのものなのだと実感させるところがある。

 音楽で言えばドニ・ラヴァン扮するメルド(くそ)がペール・ラシェーズ墓地を突き進む時の「ゴジラ」のテーマも新鮮だ。音楽が抽象的なものではなく生身の肉体を獲得している。そういえばゴジラにしても元々のその形は着ぐるみでその中には生身の人間が入っていたのだ。カラックスは“ゴジラ”に肉体を見たのだろうか?

 カラックス自身が来日インタヴューで言っていたが、これは「現実を浸食するバーチャルに対して人間と動物、機械が対抗する物語」である。ドニ・ラヴァンがそれを一身に担っている。彼なしではこの映画は存在しないだろう。

 メルドのラヴァンがマンホールのふたを軽々と持ち上げあっという間もなくその穴の中に消える素早さ、それは一瞬、ベーコンの絵画かと思わせもするほどなのだ。またモデルを軽々と担いで逃げて行く身振りの敏捷さと動物的身振りの完璧さ。そうかと思えばサマリテーヌ百貨店の階段で一緒に歩いているジーンをひょいと抱き上げる愛そのものを形にしたような感動的シーンの身のこなし方。もちろんこれは監督の演出でもあるが、ドニ・ラヴァンの肉体がなかったら映画が存在しないことも確かであろう。なぜ肉体がこれほどまでに輝くのだろうか?

 それは肉体が滅びゆくものだからだ。死するものだからである。そのつかの間のときを生きるのが肉体であるから、それはただ呼吸するだけでも美しい。動けばいいのだ。

 といってもカラックスは過去の肉体賛美の時代に戻ろうとしているのではない。それはモーション・キャプチャーの場面を見れば明らかである。普通の映画ならこれはアニメなりCGをつくるための下地のようなものであって日の目を見ることはないのに、ここに彼は映画の動きの本質を見た。たいへんな逆転がある。アニメやCG作品はその残骸でモーション・キャプチャーこそ映画なのだと言っているようなものだ。そしてそこに肉体のとんでもない変貌を見ている。何か得体の知れない生き物が生成しているのである。男と女が絡み合い全く見たこともないものが生まれようとしている。ものに息を吹き込む芸術作品とは反対に肉体からその肉と体をはぎ取り、うごめく光点に変化することで何か別の肉体を獲得している、と言ったら言い過ぎだろうか。ともかくこの場面は「汚れた血」の走って走って走りまくるシーンを彷彿とさせ、なおかつその時代からさらにもっと先(未来)にわたしたちが生きていることを思わせる。

 そして最後のシーンの驚き、いささか感傷的とも言える音楽の流れる中、ある種の感動に見舞われてしまうのだが、ドニ・ラヴァンが帰るところ、ホームのドアを開けて中にはいたところでびっくり、甘い感傷はいっきに吹っ飛ぶ。聞くところによるとカラックスとドニ・ラヴァンは友達でもなく今までに一回しか食事をともにしたことがないそうだが、そうしたいかにも彼らしい厳しい人間関係の中で生きてきた人間ならではのユーモアあふれる結末である。感動よりもそれが通じない獣性の聖性か。どこまでも憎い。

 ま、とにかくこのシーンは笑わせる。そしてリムジンが出そろって“会話”までするシーンもアニメ的だが、笑い自体はそれから遠く離れている。

 うーん、これは20年にいっぺんくらいの映画かもしれない、と思った。そしてまたこんなに率直に自分を語れる監督というのもめずらしいのではないか。

 勘違いを承知で言えば、わたしは平野勝之監督の女優林由美香を撮った「監督失格」や想田和弘監督の「精神」を思い出してしまった。とりあえずここでは私小説あるいはドキュメンタリーで対抗するしかないかもしれない、などとかってな想像をしてしまう。

 アートもまた日常や現実の生活に焦点をあて、そこからつくっていこうとする作品が少なくない。芸術論や過去の偉大な芸術より、身近な問題から、あるいは自分のことから語り始めようとする傾向は現代的で切実、その必然性もある。がしかしその多くがただの個人的な心情告白になり、本当に些細なつまらないことの羅列になっているのもまた事実である。

 そんななかでカラックスが私的な語り口からはじめ、虚構としての映画そのものに、そして芸術そのものに突き当たっているのはほとんど奇跡とさえ言えよう。