最後に見たもの、死者の目のなかにある風景。見ているものでもなく、記憶でもなく…それは、“とき”を刻んで止まった時計のように目のなかに刻まれる。なぜならからだがあるからだ。死者はからだで風景をつくる。

 

 

「夫は毛布を持ち上げました。すると、うなずきながら担当者の男の人に何か言いました。それを見たとき、わたしは思ったんです。なんのためにうなずいているの?うなずかないで。お願いだからうなづかないで。近づかないように言われていましたが、わたしはすぐに駆け寄りました。千聖がそこにいました。体は泥で覆われていて、裸でした。眠っているかのように、とても穏やかに見えました。わたしは体を抱きしめて持ち上げ、何度も何度も名前を呼びましたが、答えは返ってきません。呼吸を取り戻そうとマッサージをしても、効果はありません。頬の泥をこすり落として、口の泥も拭き取りました。鼻のなかにも、耳のなかにも泥が詰まっていました。でも手元には小さなタオルが二枚しかありませんでした。ひたすら泥を拭いていると、すぐにタオルは真っ黒になりました。ほかには何も持っていなかったので自分の服で泥を拭いました。千聖の眼は半開きでした。あの子はそうやって寝ることがよくありました。とても深い眠りのときと同じでした。でも、眼には泥がついていました。タオルも水もなかったので、わたしは千聖の眼を舌で舐め、泥を洗い落としました。それでも、きれいにすることはできませんでした。泥がどんどん出てくるんです」                     

リチャード・ロイド・パリー著「津波の霊たち」Ghosts of the Tsunamiからの引用(C通信30参照)この証言について著者は原註のなかで次のように書いている。「この一節は紫桃さよみさんへの私自身によるインタビュー取材、および2011年7月1日発行の『GQ』誌(アメリカ版)に掲載されたクリス・ヒースによる優れた記事「Graduation Day(卒業の日)」に基づく」