ジャック・マイヨールが死んだのは2001年の12月22日のことである。当時ローマに住んでいた私のところに、日本の友人のTから電話がかかってきて、マイヨールが自宅で首を吊って死んだと知らせてくれた。予想せぬできごとに驚き、ショックを受けた。素潜りの世界を少しでも知っている人なら、誰しも「あのマイヨールがどうして?」とつぶやいてしまうくらい、にわかには信じがたい事件だった。

 彼は生と死の境界線すれすれにいた人だった。深さ60mもの無呼吸潜水自体が想像を絶するが、1976年には深さ100mの記録を立てている。これがどれほど体にとって危険なことなのか。

「グランブルー」にも描かれていたライバルのエンツォ・マイヨルカは、1974年にはブラックアウトといわれる意識消失にあっている。無呼吸によって脳の血流がさがり、それで意識を失う症状である。

 海に深く潜水した時になにが起こるのだろう?

 10mくらいの普通の深さなら問題ないが、もっともっと深いところに行くとブラッドシフトと呼ばれる現象が起こるらしい。血流が脳、心臓、肺など、生命維持に必要な部位に集中して、ほかのところにはいかなくなる現象だ。その結果、手足の筋肉なども動かしにくくなり、脈拍も少なくなるが、この現象はイルカなどの水棲ほ乳類にみられる本能とも言える現象である。

 マイヨールは自身の潜水でも体の部位の変化を測定されることで、それと同じようなことが起こっていることを明らかにした。かつて勤めていたマイアミ水族館でイルカのクラウンと出会い、イルカの泳法や呼吸法を学び、意思疎通できるまでになったこともよく知られている。彼は限りなくイルカに近づきたかったし実際に近づいた。

 そこから彼の自死は、イルカと心が通じたために人間に嫌気がさしたなどと言われるようになったのだろう。あるいはその頃鬱病になっていたから、それが原因で自死するところまで追い込まれてしまったのかもしれない。これらの自死の原因はここではおいておく。

 私が興味をもつのは、海水のなかでの肉体のありようだ。

 地上では空気を感じることはあまりない。風が吹いている時や走っている時、あるいは自転車やオートバイに乗って走っている時ならその空気の物質量を感じられるだろうが、普通には、空気はあってあたりまえだから感じることは少ない。ところが海では密度のある圧倒的な海水の物質量を感じ、その重さと流れに肉体はもまれる。皮膚感覚自体が海にとろけて、自分のからだと世界がつながった感覚をもつ。重力もなくなっているから、浮力を感じる垂直方向とともに水平方向に体が限りなく広がっていく。シュノーケルと素潜りをやるだけだでこの感覚はよくわかる。

 人間は海水のなかから陸に上がった時に、体に感じる重い感覚とともにこの海での感覚を失ったのだろう。ところがイルカはまだこの感覚をもっている。そして膨大な海とつながっている。

 マイヨールは禅にも影響を受けていて、無になるということを言っていた。これには脳での酸素消費量を押えるために何も考えない、いや正しくは考えられない、ということもあったのであろう。イルカのように人間よりも小さな脳で最低限のコミュニケーションもとれ、世界と一体化できれば、それ以上のなにを望むのだ?というマイヨールの思いもあったのではないだろうか。それはもしかすると人間の進化に対する彼独自の反省だったかもしれない。

 何とも皮肉なのは、彼が重力による自死によってその生涯を閉じたことである。海から出たのは間違いだったと言わんばかりに、その陸地での生を支配する重力によって生を閉じた。