アートはどこかで現実にコミットしていなければ生きのびていけない。だから今、アートは極めてむずかしい立場に立っている。趣味の世界の「アート」は相変わらずもてはやされているが、括弧のないアートが成立するのはここ日本ではむずかしい。

 ところが奇跡のようにここでアートが成立している現場を見た。神戸TRANS−展でのグレゴール・シュナイダーの<<美術館の終焉−12の道行き>>と題された展覧会。全部で12箇所の展示があり、それぞれに1留、2留・・・と留がついている。

 そのなかの8留の神戸市立兵庫荘<<住居の暗部>>は、2018年まで利用されていた低所得男性労働者のための一時宿泊施設を使った展示である。

 まず入場者は入り口でスリッパに履き替え、小さな懐中電灯を渡されて建物のなかに入る。外の明るいところから入ったので、真っ暗で何がなにか全くわからずに壁にぶつかる。そのうちに目が慣れ、歩いて行くと二つの部屋がある。小さなライトを照らすと、2段ベッドのようなところに寝ふとんや本や日用品らしきものが雑然と散らばっていて、そこで生活を営んだ人間がいたことが生々しく伝わってくる。と言ってもそれらはすべて金属質の銀色に塗られているので、物質は質感と用途を失い、人間臭を感じさせながらもこの世のものではないものを見ているような感じになる。となりの共同トイレなどは繰り返される不思議な形状に「これはなに?」「どこなんだ?」とぶっ飛んでしまう。

 薄暗いなかですべてが均質な銀色なものしか見えてこないから、自分が知らない、わかることのない世界に迷い込んだ気持ちになる。言ってみればエイリアンになったような気分と言ってもいいだろう。

 そこをすぎて反対側に歩いて行くと、前よりももう少し広い部屋があり、ここも真っ暗ながらかすかなライトの光をたよりに見回すと畳やカーテン、ガラス戸もあるかつての生活空間。閉ざされたこの一室は、それでいてどこか遠い宇宙の一室のように思える。外からは車の音や行き交う人の声なども聞こえてくるから、たしかに生きているこの世の世界であることはわかるが、それとはかけ離れた部屋が厳然とそこにある。宇宙の暗黒をそのまま部屋に持ちこんで世界を逆転してしまったような…そのことに戦慄を覚える。

 遠いところに来てしまったと同時に、全く外とはつながらない世界に閉じ込められてしまったような…うーん、引きこもりの人の内面世界とはこんな感じなのかもしれない。

 楳図かずおの「漂流教室」の労働者版か。あるいはフィッシュリ&ヴァイスの群馬県立美術館での1998年の展示を思い出す。あれは確かポリウレタン・オブジェという作品で、工事中の道具や資材などが美術館の廊下のようなところに置かれていて、それらがすべて本物に似せてつくられたフェイクの物体のインスタレーションだった。表面のロゴや模様まで描かれていて「なんでこんなものがここにあるのだ?」と思うまもなく、それが全部均質なものでつくってあることがわかり慄然とする展示だった。やはりここでも自分は地球人ではなく、遠い惑星から来た宇宙人になってしまったと感じた。

 シュナイダーの展示はこれとは逆で実物を同質に塗りこむことによって意味や用途をなくしている。しかしどちらの場合も見ている者は、“人間”の範疇からはじかれてしまう。だから恐くておもしろい。

 もうひとつは旧兵庫県立健康生活科学研究所での<<消えた現実>>。ここは動物を使った感染症の研究をしていたところで、昨年の3月末に閉鎖になったらしい。こんな建物が神戸の街中にしっかり建っていて、その内部を見ることができること自体、もうSF以外のなにものでもないが、これはまぎれもない現実である。

 5Fは廊下もドアもすべてが白く塗られた通路でいくつかはドアが開いていてなかに入れる。古びた巨大な冷凍庫など(略)。6Fはなにか起こった直後のように、すべてが乱雑に投げ出された混乱きわまりない部屋。この階の案内図には感染症部ウィルス準備室もあるから、その混乱の理由もおよそ想像され、恐怖とユーモアが入り交じる。

 7Fは動物感染を調べるところで、部屋の名前も感染症部動物由来感染研究室とか恒温高湿用機械室(動物舎)、GLP対応動物舎、飼料室などとあり、さまざまな実験や検査が厳重な管理のもとに行われていたことが理解される。おまけにドアに放射性物質、危険とかバイオハザードの張り紙まである。屋上は空気を清浄にして外に出すための装置が林立していて凄まじい。これで清浄できたのだろうか?そして思わずうきうきしてしまうようなカラフルな動物小屋、聞けば猿が飼われていたとか。鳥が飛んできて感染したりしなかったのか?

 どの部屋も静まり返っていて、展覧会の係員以外誰もいないが、見えない恐怖の跡が歴然としてある。

 兵庫荘も研究所もかつてはぼくらと同じ人間がいて生活をし、仕事をしていたところであるが、現在は誰もいない。いないけどその痕跡が強く刻まれているところだ。“不在”はアートにとって重要なコンセプトであるが、そうした“不在”作品には人間臭も切り取ってしまった文字通り何もない不在が多い。ところがここの展示の“不在”は、人間が強烈にいたうえでの不在だから心をかきまわされる。

古い、実際に使われた建物は廃墟であるにもかかわらず、アートによって突出し、未来からの贈り物にようにも見える。

 こんな展覧会ができたこと自体が奇跡的だ。

 外国人有名アーティストが来ると、そのまま海外での作品を日本に持ってきて展示することが多いが、それとは全く違っている。場所がそうした作品を展示する美術館ではなく、ぼくらの生活の場と直結しているところを選んでいるのがすごいところで、ここの現実にぼくら以上に介入している。

翻って、こうした想像力とその実行はやはり外からのものでないと可能ではないのか? さまざまなことを考えさせる展示であった。

 

「人類は文明を超えて生きのびなければならない。人類は建築や絵画や小説のなかでそのときに備えている。ここで肝心なことは、人類がこの準備作業を笑いならおこなっている、ということである。この笑いはときには野蛮にひびくかもしれない。それでいいのだ。」(ベンヤミン「経験と貧困」から)