生者と死者のあわいに生きている。

 と言っても息を吸ってまた吐いているのだから、そのあわいとは明らかにまだ生の側にあるようだ。年をとるとはそういう事態を言うのだろう。たとえば夜中、目をつむると種々様々の顔のものたちが目の暗闇に浮かんでくる。それが、たしかにそういう人がいるなという体のものなのだ。逝ってしまった人も出てくるし、まだ見たことも会ったこともない人も出てくる。そういう人たちをじっと見たりしているうちに眠くなって寝てしまう。

 昔はこういうことに不安を覚えたと思うが、今はなぜかそれが普通になって親しみさえ湧くようになった。仮にこのように出現する人たちを亡霊や幽霊とするなら、それは怖い存在ではなく懐かしい存在と言えるかもしれない。あるいはそういう存在に近づいた自分が親しみを感じるということなのかもしれない。

 

 奄美大島に魅かれるのも、その風土が死者と近しいからだと私は思っている。死者を遠ざけることなく、近しいものとしてあるいは常に生きている自分とともにあるものとしてとらえている。恐山のイタコは先祖の霊を呼び起こすことができるが、この奄美でもユタ神様が今だにそのような存在として生活に息づいている。

 自然や風土がそのようなことを可能にしているのだろうか?たとえば海の向こうにあるニライカナイから神さまがやってくるのにしても、圧倒的な海のさまを見ているとそう思うのが自然に見えてくる。奄美のあちこちでそのように感じるところがある。ここにはまだ野生と闇があり不可視の領域があり、死者のよりどころもある。

 

 対話「私が生まれたとき」奄美編の展示初日の参加者とのフロアトークで感じたこともそのようなことであった。

 私がドローイングの対象として、何気なく選んだ赤ちゃんの安らかな寝姿が、実は生後まもなく亡くなったお子さんの写真で、いくつかある写真の中から私がそれを選んだことにビックリした家族の驚きの話があり、トークは最初からそんな生死の渦の中に入っていった。

 あるいは昭和37年の自衛隊機墜落の際の炎の中から文字通り九死に一生を得たKさんの赤ちゃんの時の話。

 あるいは制作時に描いたおばあちゃんが先日亡くなり、こどもたちと一緒になったその絵がそのおばあちゃんへの供養となった話などなど。

 いずれの話も死者の話ではあるが、それが今の自分たちの生と密接につながっていることを感じさせるものであった。

 そういえば、奄美の報道写真家の越間誠さんの訃報を聞いたのも美術館に来る数日前のことであった。昨年、名瀬市の公民館で展示を構成する文章を書いてくれた人たちに集まってもらい最終チェックをしてもらったが、その際越間さんはにこにこしながら「おもしろいのができそうだね」と声をかけてくれた。闘病生活にあるとは聞いていたが、展覧会を見てもらうことができなかったことが残念だ。

 越間さんの「奄美 二十世紀の記録」(南方新社刊)という写真集からは多くのインスピレーションを得た。その中の「ハジキの老婆」はハジキという入れ墨を手の甲に施した盲目の老婆を撮ったものだ。(上の鉛筆画と下の油彩はその「ハジキの老婆」の写真からのもの)

 私はいつも盲目の人を撮った写真に見入ってしまう。写真の目、つまりカメラは人間とは明らかに違った目を持っていて、流れる時間を一瞬、止まったように提示することができる。止まった時間なんて本来あり得ないのにそれを可能にする。盲目の人も目が見える人とは違ったものを“見て”いるはずだ。かたちではなく震えのようなもの、世界をひと続きのものとして“見て“いるのではないか。そのようなことをこの「ハジキの老婆」の写真を見て感じたのでそのまま文章に書いた。

  

 人類は世界を見て、イメージないし数値化してとらえてきたが、それ以外の世界のありようが存在する。私たちが見ているのとは違った世界がそこには存在する。先にも触れたように、奄美にはユタ神さまという生霊死霊の口寄せをする人たちがいて、先祖の霊や死者と生者の媒介を司る。実際に住民の悩みごとの相談に乗ったり、その人に起こることを予見して伝えたりもするが、このひとたちに“見える”ことはやはり普通の人が見ているものとは違っている。それはユタになる人の過酷な運命の中から育まれた個人のヴィジョンに違いないが、その声、その身振りによって確かに存在する。共同体やその時代の時間が、ユタという個人を通じて“見える”ようにしているとしても、その世界が存在することに変わりはない。

 私たちは幻想のなかに生きている。その意味では仮想的現実(ヴァーチャル・リアリティ)も、ユタ神様が祖先に憑依して語る声と身振りの実体も同質のものである。

 派生したリアリティはやはりリアリティなのである。

 それは“見える”ことに関係していよう。ただ大きな違いとして、仮想的現実は現実の従来からある“見える”方法をいささかも変更しておらず、その仕組みによっている。現実の見え方を補助ないし強化しているとも言えるから、いきおいそれは想像力の搾取的意味合いをもつことにもなる。想像する前にまずイメージを与えてしまうこと、それが電脳空間のやりかたである。

 一方のユタ神さまによって“見える”ものは、目ではなく“身体が見ている”ものであり、目⇒イメージ(脳)へとつながる想像のあり方とは違っている。私はユタ神さまのやり方に全面的に敬意をあらわす。それが言い当てることがかなわなくても、たとえ妄想であってもよいのだ。

 そこに現出するリアリティは、それを生み出さざるを得ない現実を揺さぶるちからをもっている。