赤羽史亮の絵画ームサビgFAL

赤羽史亮の絵画ームサビgFAL

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   赤羽史亮のgFALでの展示が始まった。(6月8日(木)〜7月8日(土)) *画像は展示前の写真

オープニングのアーティストトークは彼の仲間や多くの学生が集まり盛り上がった。ゆるさとリビドーが同居しているところが彼のいいところ。圧倒的なえのぐのエロスはどこからでてくるのか、それを彼に聞いてもあまり彼は答えない。事前の打ち合わせでも「あまり僕は話がうまくないので、質問してください」と言っていたが、こういう作家は珍しい。今まで多くの作家にレクチャーに来てもらったが多くの人がよくしゃべる。それに比べて赤羽は作品のことよりはそれとの関係をしゃべるのだ。しかも話が日常的でゆるい。当日も、となりに座っていた私のほうばかり見てしゃべるから、「もっとあっち(見ている人)を見ろよ!」と言いたくなったほどだった(笑い)。フツーにしゃべる。そのことが周りの人を巻き込み、周りの人の発言につながる。そういう希有の才能はそのまま絵の特徴でもあろう。DSC_0049

 作品のひとつに敬礼をした人を描いたのがたくさんあったが、それは警備員のバイトをしていていつも敬礼をしているから描いた、ということなのだ。日常の自分のことを絵にできるのは、実力がないとできないことだがそれをすんなりできるところがすごい。

 バイトがらみの話は打ち上げの飲み会でも話題になったが、彼の仲間や多くの作家志望の人間が介護のバイトをしているという。彼は某美術大学の非常勤講師もやっているがそれだけでは食べていけないのが現実。彼らの話によれば「介護の現場はアーティストを受け入れてくれる」のだそうだ。きつい仕事だがそれゆえに受け入れてくれ、その現場に入る彼ら,彼女らもその現場から何かの発見をする。20人ほどの介護を担当し、たとえば老人たちを抱えて入浴する時の彼なりの発見と驚きを語る目には、輝きがあった。この世代は、今も障がい者施設や老人介護施設で働く人が多い。そういうなかからもアートは育つ。海外留学ばかりからではないだろう。

 話をもとに戻そう。トークの後でギャラリーで直接作品を見ながら話す機会があった。赤羽の絵にはえのぐがぐちゃぐちゃに混じっていい感じを出しているところがたくさんある。そのひとつの部分をさして私が「えのぐはうんこだよね!」と言うとすぐにその言葉に反応して「そう、えのぐはうんこだ!」と叫んだ人がいた。星野武彦さんという赤羽の友人のペインターで、その日始めて私は彼と会ったのだ。学生に言っても笑われるだけだが星野さんはそのとき真剣に叫んだのだ。こういう人が友人でいるのは本当に心強い。私も彼を信用する。

 欲望の原因、対象a 。その欲望の原因としてのえのぐはまた幻想をも生み出す。単なる物質が別の世界をつくってしまう。えのぐというメディウムはその現実と幻想の橋渡しとなるのだがそれ自体は空っぽのものであり、それゆえに画家はそこに自分を投影する。ラカンは対象a として乳房、糞便、声、まなざし、をあげているが私はここにえのぐも連なっていると考える。ただしすごい絵のえのぐという条件付きではあるが・・・。そしてラカンは何度読んでも難しい。難しいけどアートと直結して直感することはできる。そうしておもしろがることは悪いことではない。

 もうひとつ、彼はひとつのシリーズのように絵を描いたあと「飽きてしまう」。普通の飽きとは違っているのだが、かなり多くの展開の後に飽きてしまい、次の展開に移る。

 これもゆるさやリビドーに関係していよう。自分と絵、自分とえのぐとの関係の新鮮さを求めている。私はそう解釈する。ここで思い出すのは、アールブリュットの人たちの作品である。その人たちの多くはひとつのことをずっとやっていてまず飽きない。同じことをやり続けている。一見この方向とは全く違うところにいる赤羽の絵がが、共通のものを持っているように感じられる。子どもの絵のようにむちゃくちゃ描いていて、えのぐがかたちや構図に従属していないということもある。ゆるさとむき出しのリビド−がそうした連想を生み出すのだろう。

 アールブリュットの人がひとつのことに執着して飽きることがないのはなぜか。それはつくることやえのぐとの関係に鮮度を持つということにほかならない。それが彼らのアートのすごさでもあろう。赤羽もその鮮度を保つために“飽きる”のだが、もっとも違う点は彼が自分の作品を見る、ということだろう。アールブリュットの人はつくることが中心で、そのあとの自分の作品を見ない、と言うのは誤解を生む言葉であるが、赤羽がそういう人たち以上に自分の作品を見る(見てしまう)ことは確かである。見るから飽きるのだ。

 ここが大きく違うところで、それはアートとしてのアールブリュットを考える上でも重要な視点であると思う。私たちはアールブリュットの作品に嫉妬し敬意を払うが同じところに立てないことを知っている。見ることを持ってしまっているからだ。それは批評の目でもある。その上でなおもぺらぺらの一枚の絵、欲望のえのぐを孕んだ絵がそこに出現することを夢見ている。それが赤羽史亮の絵だ。