赤羽史亮はすごい絵をかきます。来週の6月8日(木)にアーティストトークとレセプションがあります。(私も出る)
プレスリリースのためのコメントを書いたので以下に掲示します。
えのぐが歌うこと
赤羽クンのえのぐにはエロスがある。かつて、長谷川利行のえのぐにもエロスがあり、麗子像の毛糸の肩掛けのえのぐにもエロスがあり、ゴッホのえのぐにも、マチスの薄塗りえのぐにもエロスはあった。
絵の具は肉体のものだから、かたちに屈するとエロスを失う。かたちを補強するだけの道具になってしまう。
赤羽クンはえのぐに歌わせる。えのぐを踊らせる。それは彼がロッカーであり、歌い、踊ることを自然にやっているからだ。彼は歌う。
ペインティング!
それが、一番大切だ! ペインティングだ!
探すんだ!
もうあるんだ!
でも見つけるんだ!
ペインティングだ! 見たいんだ!
見せたいんだ!
深いんだ熱いんだっ!
でもペラペラなんだー薄いんだ!
そのために生きてくんだ!
僕は絵を描かないといけない!
木苺 りんご ゴリラ ラッパ ロックンロール コロポックル
コロッケ イスラム国 まんが道 ハーモニカ 牛乳 警備員
オーケーペインティング!
オーケーペインティング!
オーケーペインティング!
(赤羽史亮)
こんな言葉は絵の現場のまっただ中にいる人でなければ出てこない。
しかし彼の絵は言葉を無効にもする。その前では“絵画性”も絵画論も色を失い、批評のことばも、まず見て感じることから始めなければならないことを知る。
学生時代、彼はえのぐを大量に使い、ほとんど缶入りの白と黒で、毎日動きながら描いていた。いや描くというのはあたらない。彼は最初からペインティングしていた。バンドをやって、絵と音とまんがとパフォーマンスがいつも一緒の人だった。
赤羽クンは許されている。えのぐをむちゃくちゃに使い、ナンセンスの限りを尽くすことを。名付けようもない四角いぺらぺらのものに接近することを許されている。
だがその絵を見る者は意味と言うにはあまりある、途方もないなにものかを見いだすだろう。ナンセンスと引き換えに沸き上がるその感情こそペインティングの証しなのである。
(長沢秀之)