「対話」*(註1)の奄美版の可能性を調べるためで、大学の同僚の三澤教授とともにあちらこちらを回ってきた。(三澤さんは今年の夏に「ムサビる!」で学生を引き連れ黒板ジャックを実施、その報道で奄美では知られた存在になっていた。そして次回の可能性の調査のために同行した。)
NPO法人アマミーナを主宰する徳雅美さんのすすめによる訪問であったが、案内してくれたのは事務局の森田さんである。元校長先生だけあって奄美のことを知りつくしている。1953年の日本復帰のこと、産業や地元の工場、食べ物のこと、島を二分したかつての選挙のことから文化、伝承まであらゆることをよどみなく話して私たちの知らない奄美を紹介してくれた。
もっとも印象に残ったのは地元の人のバイタリティで、当然これは食べ物と関係してくる。田中一村美術館がある奄美パーク内の展示ホールに“なり味噌”の作り方が出ていたが、この味がよい。“なり”とは土地の言葉でソテツの赤い実のことである。この実はそのままでは毒があって食べられないが発酵すると毒が消
えるという不思議な食べ物だ。地元ではニガウリや肉、魚などと混ぜて食べるらしいが、帰ってから野菜や味の薄い煮物に混ぜて食べてみたらこれもおいしい。味噌の風味が独特で、一度食べたらやみつきになること請け合いである。(右図)
なり味噌は古くからつくられていたらしい。奄美市立博物館には、幕末の名越左源太(なごやさげんた)という人の描いた奄美諸島の自然や衣食住などを描いた「南島雑話」という民俗誌が残っていて、そこにもソテツの毒抜きのことが出ている。(図2)この挿絵全体もおもしろい。こうした絵は素人っぽくてうまくはないがよくその感じを出していて味がある。おもしろいものを見てそれを他人に伝えようとする意思がよく出ているからだと思う。
博物館の高梨さん(この人は小平市出身で沖縄研究から奄美研究に導かれた人らしい)が、名越左源太はどうも薩摩藩の命を帯びて奄美を調べたのではないかという説を教えてくれた。なるほどそれで道理が立つような詳しい記述と絵である。伊能忠敬の日本地図はもっと時代を下るが、その地図にしてもこの名越左源太の民俗誌にしても、また秋田藩に仕えた小田野直武らの「解体新書」の挿絵にしても、それらはみな日本の近代化の過程のなかから生まれたものでそこに妙に魅かれるのはなぜなのかと思う。異文化の発見とそこから生まれる新たな絵の可能性のようなものを感じるからなのだろうか。すでに確立したジャンルのものとはちょっと違ったおもしろさである。
さて本題に戻るが、島ではこちらとは違った時間が流れているようだ。
加計呂麻島に行き、諸鈍シバヤがあることを聞き、その舞台である大屯神社に行ってみる。シバヤとは芝居のことであり毎年10月にここでその仮面劇というか仮面踊りが開かれるということだ。(図3)
YouTubeで検索してみるとあるある。何とものんびりしていて一緒に踊りたくなるようなところがおもしろい。唯一の人形劇である「タマティユ」などは、セットなども単純でアバウトというかそれこそいきなり神話的な風景に出会ってしまった感もある。仮面をつけての芝居は韓国にもあるが、ここのは劇と言うよりは踊るための仮面で、それが神とも人とも受けとれる加減が微妙である。相当ユルいのに、単純な踊りが強い印象を残す。これは来年実演をぜひ見てみたいと思った。
島バナナを買うために立ち寄った八百屋さんは、ドラゴンフルーツを出してくれ、東京から来たと言うと島の話をしてくれた。最近の新聞記事である日経新聞の「ふるさと再訪 鹿児島・奄美」のコピーを見せてくれたので、これも帰ってから検索し、奄美の風土や歴史を少し知ることができた。このシリーズの(6)では奄美の喜界島を取りあげている。旧日本軍の特攻基地のひとつであり、知覧基地と沖縄を結ぶ中継基地であったことがレポートされ、終戦2日前に出撃していった19歳の特攻隊員のことが触れられていた。何ともいたたまれない話である。
そういえば、森田さんが案内してくれた場所のひとつに「震洋」の出撃基地もあった。(図4)
震洋は爆弾を積んで敵艇に体当たりする特攻艇である。のどかで静かな風景のなかに突然出現する特攻艇は、まぎれもなくそこがかつて戦場の一部であったことを示している。
そうした戦争の遺構はたくさんあるが、その中でも三澤さんも知っていた旧日本軍の弾薬庫跡は私に強烈な印象を残した。こんな空間は未だかつて見たことがなく、それは建築空間でもなくデザインされた空間でもなく、ただ機能空間として、だがそれも今は無意味なものとしてあることが見る者を震え上がらせる。湿気を防ぐために壁は二重構造になっていてしかも頑丈に鉄筋が格子状にめぐらされている。無意味の空間は怖いが人を魅きつける。(図5)今となってはそんな空間なぞどこにもなく、あらゆる“意味”が世界を覆っているからだろう。
そうこの感じはアートに近い。もちろんここにも弾薬庫としてつかったという“意味”は残っているが、私は今を生きているのだから別の感じ方をしてもよいだろう、と思う。ここは島に残したい一級品の場所である。
島唄をやっている居酒屋で有名な「かずみ」での体験も楽しかった。声の高い男の人の唄と蛇味線にあわせ、つまみを運んできた女性が歌い出し、厨房にいたおかみさんまでが歌い出す。私と三澤さんはそれぞれに太鼓をもたされトン、トントンと伴奏を受け持った。まずは歓迎の唄だそうだ。(下図、ここは地元味の久保井さんの紹介による)昔、中国の三江(さんじゃん)の山奥の農家に行ったときに、そこの居間で発酵した生の魚(熟れすしのようなもの?)を出されて家の主人らが歓迎の唄を歌ってくれたのを思い出した。唄の言葉はよくわからないが哀愁を帯びつつも明るい。ポルトガルのリスボンのファドは人生の悲哀の感情が強くにじみ出ているが、ここのはどこか楽天的でユルい。そう思うと、これは諸鈍シバヤにもこの島の人たちにも共通した感情かと思えてきて、何となく全体がつながった気がした。
まだまだ書き足りないことがたくさんある。ずっと思っていたのは「神は海からやってくる」ということだった。本州で見かける社にいるのではなく海からやってくる。このことは実は随分前に「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」(比嘉康雄著)を読んだ時から続いている興味である。そこには海から来る神を迎えるノロのことが載っているが、奄美にもノロはいて、先述の森田さんのご祖母もノロだったということだ。
私ははじめに「対話」のことを書いたがそのテキストで次のように書いた。
『死者との対話は可能だろうか?
物理的には不可能であっても、例えば恐山のイタコのようにそこに対話の空間をつくることができないものだろうか。以下略』
つながっている。私のイタコやノロの方への怖れと敬意もはっきりしている。次回のこの報告は多分奄美からになるだろう・・・ノロの意味もまた詳しく語られるだろう。
註1:「対話」は、指定した依頼者に「私が生まれたとき・・」で始まる文章を書いてもらい、同時に提供された過去の写真をもとに私がドローイングを描き、その文章とドローイングを展示するという企画。
依頼者は学生であったり、私の友人であったりするものの、特別に選んだ人たちではない。文章の作成に関しては、自分に関係した事実ばかりでなく、周囲の人のことや家族の話でもよいことにした。場合によっては想像を交えた話でもよく、始まりは個人の思い出や記憶であっても、それが特定の人のそれに留まらず、歴史や他者への思いに通じるようになればよいとした。