「アート」はおもしろいか?

2009年9月8日

一般の人にとって、「アート」はおもしろいのだろうか?

いわゆる現代美術の「絵画」はどのように受け取られるのだろうか?

川越市立美術館から個展の要請を受けた時に、漠然と抱いた不安はそのようなものであった。これは、今までの画廊での個展や、都市美術館での展覧会では、感じたことのない類のものであった。
 もちろん、これには、川越という地方都市での現代美術展という事情が絡んでいたことは、言うまでもない。展示だけでは心もとない。せっかくのこの機会を借りて、地域の人たちとの、絵を通じた交流のようなものができないだろうか?
 そう考えて出てきたのが、私自身の「アートの武者修行」であった。最近、一番関心を持っている「大小」(遠近)をテーマとして、地域の人々にドローイン グをやってもらう。しかも、これを展示期間中にやるのではなく、半年前からの「ワークショップ」としてやってみようと考えた。当然、自分の作品の進行と同 時にそれが始まり、忙しい日々を送ることになったが、自分の世界と未知の人の世界を行き来するのは刺激的なできごとでもあった。
 まず、最初に訪れたのは、ホリスティク医学(人間を丸ごととらえる)や緩和ケア医療で知られている帯津良一先生の帯津三敬病院。先生に「患者の会」を紹 介してもらい、会を主宰するOさんらの協力を得ることができた。Oさんは末期ガンの状態から奇跡的に生還した人で、他の人も同じような経験を持つ。「患者 の会」はその人たちがつくった独自の組織で、気功をはじめとして、音楽、瞑想、食事療法、その他さまざまことを通じてガンとたたかっていこうとする患者さ んの集まりである。そのなかに飛び込んで,何回か行動を共にした後、「大小」(遠近)のドローイングをやってもらった。
 なにを描いてもいいということで、最初はとまどっている様子だったが、話もはずみ、冗談も出始めると次々に絵ができていった。なかでもTさんの「点滴」 の図は、新鮮で衝撃的だった。他にも植物、動物をはじめとした自然の題材がたくさんあり、そのどれもが、「いのち」を見つめていた。

 その後、中学校、高校と月一回のペースで「ワークショップ」を実施した。いずれも美術館の協力があって実現したものだが、最も印象深かったのは、展覧会が迫った時に訪れた小学校であった。
 まず「大小」(遠近)の自作ドローイングや他の作例を見せ、こちらの考えを説明してから始めたところまでは、他となんら変わりはなかった。違ったのはそ の後である。3、40分ぐらい経つと、みんなが夢中になり、目が輝いてきたのがはっきり感じられた。用意した紙はまたたく間になくなり、担当の先生に急遽 つくってもらったが、それもすぐになくなった。犬の集団を繰り返し描いている子、鉛筆の先を、大きく描いて自分で驚いている子。その他、とんでもない絵が 続出して、その場は一種の興奮状態になった。おたがいの絵を見ながら、笑い転げ、自分も負けるまいとさらに絵がエスカレートしていく。あっちこっちに引っ 張りまわされたが、設定した時間(1時間半×2(クラス))も忘れてしまうほど楽しく濃密なひとときであった。
 画面にうまく収める絵はできるが、はみ出してしまったり、極端に小さく描くことはかなり難しかったようで、3、40分という時間はそこにいくまでの試行 だったようだ。それでもいいと実感した時のこどもたちの驚きは相当なものだったらしく、みんなが後で送ってくれた感想文にもそのことが多く書かれていた。
 それにしてもこどもはみんな天才だと思う。うまく描けないことが、また絵を豊かにしてもいる。
 これらの絵は、私の個展が始まるのと同時に、市民ギャラリーで、全作展示となった。会場こそ違ったが、館の上と下に、一部ではあるが同じテーマの作品が一緒に展示され、つかの間の市民と私との「絵を通じた交流」が実現した。
 全体の絵を見渡して思ったのは、期せずしてそこに人間の一生が現れているということだった。こどもたちのあの爆発的なエネルギー、中学生の優しさと揺れ うごき、高校生の葛藤、そして病院の患者さんたちの“生”への希求。それぞれの生が一枚の絵に現れていた。
 牽強付会を承知でいうならば、「大小」(遠近)のドローイングには、生死の視覚の問題も含まれている。(死ぬ時は、ものが小さくなって遠ざかるのだろう か? それとも大きくなってかたちもわからなくなるのだろうか? 生まれる時は……?)
 さて最初の題に戻って、アートはおもしろいか?
 もちろん、私はおもしろいと思っているのだが、一歩、外に踏み出したとき、それがどうなるのか、答えはなかなか見つからない。しかし、どよめきと笑いと、そのひとそれぞれの、かけがえのない絵が残ったのは確かである。


◯7月12日のオープニングから8月2日のアーティストトークまでに、寄せられた質問とその答えをあげておきます。

質問:「大きいコドモ」の絵と「皮膜」の絵はどういう関係があるのですか?

●「大きいコドモ」や「182頭の羊」の絵は、記憶の皮膜のようなものです。見ることが、無限の記憶や感覚の層からなりたっているとしたら、その一枚を絵 にしたようなものです。9枚組みのドローイングも、その意味では「見る」ことの厚みをそのまま提示しています。 「皮膜」の絵はその具体的な構造だと思っています。

質問:「皮膜」の絵は、一瞬見た時に、眼の焦点をどこに合わせたらよいかわからなくなるような感じがありますが、これは作家が意図していることですか?

● 私たちの「見る」行為にはさまざまな層が含まれています。ここに焦点をあわせながらあちらを見るとか、あるところだけを見て他は見ない、あるいはそこから 一挙に全体を見る、ことなどです。 同じようなこと、いやもっと極端なことが、絵を描く時にも起こっているのです。例えばフェルメールの「天文学者」の絵の前に立って細部を見ると、自分がカ メラになってズーミングや視線移動を繰り返しているような気分になります。絵には、視線や焦点移動、対象との距離測定などが集積しているのではないでしょ うか。 私たちが絵を見る時も、眼はその表面と奥行きを同時にとらえることができます。またそれをバラバラに見ることもできるでしょう。 絵を見た時や、つくる時に感じる不思議さを「皮膜」は実行しています。

質問:テキストを書いた山本和弘氏が、3章で「奥行きの絵画から多層構造絵画へ」と述べています。これについてどう思いますか?

● 私は「多層構造絵画」という言葉が思いつかず、ひらがなの「おくゆき」という言葉で語っていましたが、なるほど「多層構造絵画」かと、評論をする人の言葉 に感心しました。 そこから思うことは、秋田蘭画の小田野直武の絵や亜欧堂田善などの、洋画が入って来た時に成立した一連の画家の奥行きがあるようなないような不思議な絵で す。先頃展示があった北斎の「肉筆絵」もおもしろい。版画的な平面性と陰影がいっしょになっています。 私たちの「見る」基底には、西洋の透視図法のようなスムースな遠近法はありえないのではないでしょうか。はじめから薄っぺらな層の遠近しか考えられないの ではないかと思います。もちろんそれは肯定的ないい意味です。 すべての世界を遠近法のもとに組み入れて解釈しようとする見方に対して、すきまだらけの多層構造があってもいいのかと思うのです。そういった不合理性も含 んだ見方は私たちの持っている文化の特徴でもあると思います。

質問:科学と芸術の関係について、なにか考えていることがあったら聞かせてください。

● 絵と科学はいつもたがいに影響を受けながら歩んできました。19世紀の科学技術のひとつの現れがエッフェル塔であり、同じ頃の絵画にスーラの点描がありま す。これらは似ていますね。 17世紀のフェルメールの時代には、カメラオブスキュラの発明があり、今まで人間が見ていなかったところに眼がいくようになりました。フェルメールの絵 の、たとえば壁などには、それまで視線が届かなかったところに初めて目が届いた様子が見て取れます。 日本に洋画が入って来たときも、それは単なる技法上の問題ではなく、遠近法を含めた一種の科学が入って来て、日本画に影響を与えたと見ることができます。 現代においては、カメラやパソコンを中心としたデジタル技術の圧倒的な革新があり、私たちはそのような環境に生きています。現代の絵はこの影響を少なから ず受けているに違いありません。あるいはその行く末を予言しているかもしれません。ちょうどカメラの誕生の時代に、フェルメールの絵があったように、今の 時代にふさわしい絵がどこかで生まれて来ているのでしょう。

質問:チラシには、ワークショップを何回もやったことがでています。ワークショップの意味は何ですか?

● 地方美術館で、現代美術展を開くのは思った以上にたいへんなことです。川越市美の英断に敬意を抱いています。しかしまだまだ美術は、気楽に見に行くような ものにはなっていないと思います。特に現代のものではなかなか理解が得られません。ただやっただけでは見に来てもらえないのが実情でしょう。 ここでの展覧会が決まった時に考えたのは、「美術はおもしろいのか?」ということでした。自分がやってきたことが、ふだん美術になじみのない一般のひとに とって、どう映るのか、自分が試されていると思ったわけです。 これは芸術の死活問題です。私は理解を求めているわけではありませんが、何らかの交流はいつも必要だと考えています。他流試合のようなもので、帯津病院で は、文字どおり、道場に何回か行って、「患者の会」のみなさんに絵を描いてもらいました。点滴の絵とか、弱ったときの手の絵とか、やはり見る視点が違って いておもしろいと感じました。 小学校は、最後のほうは興奮状態になってすごかったですね。「大きい」、「小さい」と2枚描く予定が、5枚、7枚になり、みんな夢中になってやっていまし た。子供たちは、画面でかたちを切ってしまったり、極端に小さく描くことができないのですね。それができて、「大きい」「小さい」が表現できた時、興奮し ていました。子供たちは本当に天才です。理解よりも先に感じてしまうところがいいですね。この子たちはどこへ行ってしまうのでしょうかね。

質問:フウケイなどのカタカナ文字の意味するところは何でしょう?

● 「風景」から意味を差し引くと「フウケイ」になる、という感じです。「風景」を見ているのは私ですが「フウケイ」を見ているのは眼です。その意味では、前 回の個展の時の「メガミル」とも共通点があるでしょう。「メガミル」は「私が見るのではなく、眼が見る」という状況をさしています。また、 megamill、つまり巨大粉砕機の意味もかけています。 「フウケイ」を見るのは、私がコントロールできない私の眼であり、カメラの眼ともいえます。私たちの眼は、いつのまにか機械の領域に入り込んでしまったの かもしれません。それはサイボーグの眼のようなものでもあり、はじめて地球に降り立った宇宙人の眼のようなものでもある、そんなことを想像しながら、「フウケイ」というカタカナを使いました。