
その状態は数年間ずっと続いたが、ドローイングだけは描いていて、そうするなかで体に変化が起こった。C通信でも書いたが、そのひとつはいつも眠る前に多くの人の顔が浮かんでくること、もうひとつは時々ではあるが目を瞑った際にそこに直線的な光が交錯して見えることだった。後者に関しては、以前、細長い三日月のような光が走ったことが何回かあったが、眼科では「そのうち慣れて気にならなくなります」と言うだけだった。
単に妄想や視覚の障害の一種としてしまうこともあり得るだろうが、自分の体に現れるそうした不可思議は当事者にとってはリアルなものである。そうした兆候は、自分の生に刻まれた記憶や体験からくるものであり、極めて肉体的なものに違いない。肉体が動き出すのを感じた。これは絵を描けなくなった時期にはなかったものだ。
絵をつくるのは極めて肉体的な行為だと思う。見たこと、あったこと、感情・・怒りや悲痛、それらが体を通して何かを欲求する。舞踏家ならすぐさま自分の肉体を動かしてその欲求のありかを探り出すだろうが、絵の場合はちょっと違い、ここにえのぐや筆、キャンバスなどの物質が加わる。特にえのぐは体液のようなもので肉体の延長上にある。
問題はこうした絵画をつくる行為が、古くさい絵画の文法としてコンテンポラリー絵画から阻害される傾向にあることだ。自分の場合も現代の絵画を追求するあまり、抑えていたところがあることは否定できない。
だからあらためて絵をつくり出すときに「もうコンテンポラリーはいい。これからは趣味で絵をやる」と居直ってしまう自分がいた。
それからは、今まで抑えていた体を動かして、描きたいことを描くようになった。筆先はもちろん、筆の柄までもつかって絵を描くようになった。運動量も増えた。 これは「自由になった」ということではない。むしろ、不自由ながら自分の肉体がキャンバスの前でなんとか動くことができた、ということだと思っている。