サッカーワールドカップカタール開催までに、過酷な労働で6千人もの死者があったことは忘れてはならない。スポーツへの熱狂とカタール政府への批判は両立する。そのうえで2つのできごとが蘇る。
クロアチアのタフな戦いぶりが印象的だった。ユラノヴィッチ。日本がクロアチアに負けて前田が泣いていたときに、同じセルティックでプレイするユラノヴィッチが彼のもとに来て頭にキスをして声をかけた。「同じチームメイトであることを誇りに思う」と言ったそうだ。泣いてる前田に慰めの言葉をかける様子は世界中に配信されたが、自分たちの勝利を祝う前に、たたかった相手にかけることばがあることがすごい。国同士の対戦以上に所属する地元チームの一員であることへの誇りと愛も強い。
もうひとつはクロアチアがアルゼンチンに負けたあと、がっかりしている同僚にモドリッチがかけたことばだ。慰めの言葉をいろいろかけたあとに「愛してるよ」と言った。こういうときに「愛してるよ」と言えるんだ、というか言うんだ、とこれは見ていて心が動いた。モドリッチのプレイは37才という年齢をみじんも感じさせないタフでクレバーなものだったが、そのキャプテンシーもすごい。その試合後のことばがいろいろ収録されていて、まさに体とことばがともに生きていた。
ちょうどそのころ、テレビのニュースでは日本の重要な政治の話があり、官房長官が出てきて下を向いて原稿を読んでいた。ほとんどこちらを見ない。前の官房長官もエラそうにしていたし、その前も原稿読むだけで、記者の質問があると素っ気なくことばを出していた。いや、ことばなんていうもんじゃない。政治家みんながこちらを見ないで原稿を見て口をぱくぱくしているだけだ。このひとたちは一体何を言おうとしているのか? もっと前の総理がことばを徹底的に破壊したことはたしかだが、それからほとんどの政治家がことばをしゃべらなくなった。人を見なくなった。小学生だって「相手を見ながらしゃべる」ことを覚えるし、みんなそうしておとなになる。そうして社会は成り立っている。ここでは政治家がそれをしていない。それに対して文句もない。ことばに出さないからもちろん議論だって成り立たない。あの人たちはほんとうはことばの意味を知らないで言っているだけではないか?その意味を知っていたら、たとえ政治家でも思い入れや強く訴えたいことなどがあり、それが表情にも出てくるはずだ。でもただ棒読みしているだけだから、何も訴えない。フラット化、感情無し、つまりことばが意味をもたない。こうして見るだけ無意味な時間が過ぎていく。もしかしたらそのようにして政治への無関心を育んでいるのか。これこそが日本の得意技、ステルス陰謀論なのか。