エル・グレコ展

2013年1月30日

 絵画は可動だから、その場特有の、その場でなければあり得ないということは基本的にはあり得ないのだが、グレコなどやはりその生きた土地トレドで見なければ意味がないという偏った考えをわたしは持っていた。だから日本でやっているのを見たくない、でもやっぱり見たい、という複雑な心理状態があってじっとしていたのだがやっぱり初日にのこのこ出かけてしまった。

 今回の展示の特徴は、世界からグレコの小さい作品が集まっていることだろう。なるほどこれならここでやる意味がある。すこし宗教を離れて気楽に見てもいいと思った。

 で、気になったのは“手”である。圧倒的に“手”がいい。

身体の一部である手を超えてそれは“どこからか出現したなにものか”になっている。こんな見方は邪道かもしれないが、それだけで楽しめることは間違いない。(見当違いを承知で言えば、これに対する“指し手”としては狩野一信(五百羅漢図)が考えられる。もちろん時代も違うが、宗教をきっかけにしたファナティック絵画という点では共通のものを感じる。)

 もう一つは色、筆触のある色がいい。単一色の明暗がこの上なく美しい。これはもう現代ではなくなったことなのかもしれない。

この色、グレコの絵がどのようにでているのかとカタログを見るとあまりに色の違いにがっかり。今回のカタログはとても買う気になれなかった。色校はどうしたのだろうか?(こんなにも違ったものに見えるという点で逆に絵画とは何かを感じさせる。)

 ま、印刷は本物とは違うと言ってしまえばそれまでだし、そもそも研究者でもないのになぜカタログが必要なのか、それを目で見ればいいのではないかと思い直してカタログはやめた。その日はリヒターの最近作を六本木のギャラリーで見たが、ここでもカタログではこの面白さは出ないと感じた。

 見るほうにとって、絵画はそのときそこで見て成立する一回性のものなのだ。見ないことには何も始まらない。あとはすべて“情報”でしかない。