万年あとの記憶Ⅱ、
多くのひとが永遠の生を夢見た「不死の時代」は到来しなかったが「死ねない時代」はやってきた。「死ねない時代」とは、そもそも死というものが意識されなくなり、自分が死んでいるか生きているのかさえもわからなくなる時代のことである。そして現実にひとは簡単に死ねなくなった。
車の自動運転がスマートシティを呼び寄せ、度重なるウイルス禍の隔離生活でそれは一気にひろまった。テレワーク、監視カメラ、AIによる顔認識、データベースに集められた膨大な個人情報によって私権は制限されたが、人びとも犯罪や自然災害、ウイルスの恐怖から逃れるために、徐々にそれに従っていった。ただし中国のような独裁政権によって私権を制限した国は、逆に権力の非多様性によって21世紀に崩壊した。
このなかで、生命維持のために人びとの肉体の数値化が考えられ、それらはパーツと化し、交換可能なものとして製造が進められた。この流れは押しとどめがたく、ひとがサイボーグやアンドロイドになることを促した。その始まりは20世紀の末からおこっていたが、その後も人びとは徐々に肉体を失っていったのである。
一方宇宙レベルでは惑星としての地球変動が始まっていた。従来の地球が育んだ生きものはその新たな変動に対応しなければならなかった。温暖化とそれに伴う海水温の上昇や気候変動、水害、空気汚染、地震、火山、食糧難、新型ウイルスや病原菌の蔓延など、以前とは違ったレベルの地球環境がそれを要求していた。ひとは従来の人間ではいられなくなっていた。
「将来はアンドロイドとして他の惑星で生きる」
これが新しく生まれてくる子どもたちの夢になりつつあった。
21世紀はじめの「からだがない・・・」というつぶやきは、何周も回って現実のものになった。はじめの千年でひとは自らの肉体を変わってしまった環境にたえられるものに置き換え、あるところは部品に置き換えていった。強靭なその肉体はたしかに生き残れることはできたが、逆に死ぬことができなくなった。死が意識されなくなった。そのようにして惑星移住の条件が整いつつあった。
肉体とは誤作動に満ちたものである。誤作動のないAIであれば、問題はすべて解決するはずだが、AIとても脳の働きをまねたものであり、それも肉体の一部にすぎない。しかも脳は腸管系の入り口と出口をコントロールするとしても、その全体をなす腸管(はらわた)そのものには関与しない。はらわたはこころであるとM*は言ったが、そうであるならばAIの弱点は、はらわたとつながっていないことである。つまりAIそのものが不死の体現であり、それは死ぬことができないのだ。できるのは作動し続けることか消滅しかない。
次の千年でひとは肉体を捨て、惑星へ飛び立った。ただしそのDNAと遺伝子情報は地球に保存した。 一方で地球に残るものも少なからずいた。このひとたちは動物として生き残ることになったが、これは古来から地球上にいる動物とは違っているので“動物器械”とも言われた。それは半ば動物的に生き、器官としての肉体を持ち、誤作動を生きることを意味した。当然、死の確率は高くなったが、死ぬことができた。
人間の死はそれほど昔からあるものではないだろう。数百万年に及ぶデボン紀の“波打ち際”での生物の死があり、陸に上がる生物たちのあるものは海に引き返し、あるものは陸に上がった。ラスコーの祈祷師はまだ人間ではなく、死ははらわたを出した野牛のほうにあった。人間が死ぬようになったのはそれからだ。ローマでは「野獣狩り」による闘獣士の死が見せ物になる。ウイルスの恐怖は黒死病として現われた。リスボン大地震の建物倒壊と津波による死。
そして現代。広島の市井のひとの死、小学生のSさんの水死、マイヨールの死、Tの死、どこにでもある死、友人の突然の死、家族に看取られることなく逝ったKさんの死、親戚のNさんの交通事故での死、ウイルスによる医療従事者の死、感染者の死、津波に流されたMさんの死、幽霊の死、人種差別で殺された人の死、大川小学校の小学生74人と先生10人の死。
これらの死は、今はない。それらは記憶としてデータベースに保管され、地球に残った動物器械の器官に接続したときにだけ蘇るものになった。