
パソコンやスマホなどのデバイスは脳の延長であり、その構造を模した道具であるとよく言われる。確かに演算の仕組みやアルゴリズムは人間の脳の働きを数値化してその機能として似せているところがある。このときいつも決定的に違うのは、デバイスには2次元のディスプレイモニターがあって画像がそこに映し出されるが、人間の脳にはそれはないということだ。当たり前のことだが人間の脳のなかには2次元画像も3D画像もない。いや、これはそういうのがないから、その脳の延長としてのデバイスが2次元に画像を再現する装置を獲得したともいえるのだろう。
たとえば、過去のできごとやひとに関しての記憶にしても、鮮明なところもあればもやもやしたところもある不分明なもので、デバイス上の画像のようなしっかりしたかたちがあるものではない。それを画像で見せられて初めて「そう、こんな感じです」と特定できて、逆にそれが記憶として定着していく。
記憶になる以前の、いわばイメージのつくられはじめの混沌は夢のなかで見るようなものに近い。決して平面ではなく、かといって3次元的な立体でもなく、
それ以上に次元を超えて時間も入り交じっている。
おそらく、脳のなかにかたちをつくる複雑な回路があり、そのつながりによってイメージ(像)がつくられる。そうしたはじめの混沌には錯誤も間違いも多いが、それゆえに新たなかたちも生まれえるのだろう。
デバイスでは数値と回路から生まれた像を2次元のディスプレイで示すことができるが、人間の脳ではそれができない。言葉を駆使したり身振り手振りで再現しようとするが、それをやっているうちに目の前の平面に何かを描き出すことをやってみるようになる。そういうのが絵なのだろう <つづく>