この場所の、この惑星で起っていることの意味を考えながら、美術大学という場の新たな生成物を見て回る。私は過去に“サイボーグの夢”という展覧会を企画したことがあり、いつも作品をSFの文脈のなかに置いてみる癖があり、そう見て回ることは不自然なことではない。
まずはこの場所、つまり私たちが生きているこの地に特有の“印”をもった作品から眺めていきたい。岩崎由実の絵画は陰影の振幅とほのかな光という“印”をもっている。私たちが油絵具で絵を描こうとするとき、どうしても突き当たる問題があり、それはその物質性の問題であったり、風土の問題であったりして、そのまま西洋絵画の技法を応用しようとしてもうまくいかないことは絵画史を見れば了解されることである。そこでは“つくることをつくる”ことが必要になってくる。つまり、つくるための新しい技法をつくらなければならない。岩崎は生キャンバスに膠をひき、その上に油彩を半ばつけ、半ばしみ込ませるように絵をつくっていく。それは白い下塗りがしてあるキャンバスに描くのとは違って、どちらかというと日本画の絹本に顔料をおいていくのに近く、引き算と足し算をあわせたような絵具の重ねになるが、それでもそこから生み出される一見弱々しい影と光のあり方を肯定的に認めていこうとする方向は、そのどちらにも属していない。
かつて高橋由一が西洋から入ってきた油絵具と格闘して、日本独自の油彩表現をしたことを遠いこだまとして聞きながら、彼女は力を抜いて薄い油絵具を重ねていく。高橋由一の桜花図(図参照)の作品の桶の部分、カビよごれで煤けたところを油彩で表現する感覚が、岩崎の影の表現に引き継がれてはいないだろうか。もちろん由一はここに影を描いているのではなくシミを描いているのだが、こうしたところに目を向ける感性は私たちのなかにまだ残されている。
谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」には次のような部分がある。「中略・・われわれは、人間の垢や油煙や風雨のよごれが附いたもの、乃至はそれを思い出させるような色あいや光沢を愛し、そう云う建物や器物のなかに住んでいると、奇妙に心が和らいで来、神経が休まる。」そして闇や陰翳の美に対する日本人の感覚を、羊羹や醤油のたまり、建物の庇、床の間などをあげて称賛している。しかしここで重要なのはその陰翳の妙ではなく、そこから何を今の自分らのものとして掬うかという問題である。それはたとえて言えば、北斎が西洋絵画の陰影の表現に影響されて、その肉筆浮世絵において奇妙なしかし何とも魅力ある陰影表現をしたようなことである。
ここでまた前述の書の一部をひく。文楽の人形のことを書きながら作家はこう書いている。「中略・・美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える。夜光の珠も暗中に置けば光彩を放つが、白日の下に曝せば宝石の魅力を失う如く、陰翳の作用を離れて美はないと思う。つまりわれわれの祖先は、女と云うものを蒔絵や螺鈿の器と同じく、闇とは切っても切れないものとして、できるだけ全体を蔭へ沈めてしまうようにし、長い袂や長い裳裾で手足を隈の中に包み、或る一箇所、首だけを際立たせるようにしたのである。」
後半は文楽の人形についての記述になっているが、それでも陰翳と光の関係を言い当てている。岩崎は美史研ジャーナルにて『「男山蒔絵硯箱」に見る象徴的な図像とその解釈』という論文を書いているが、そこで現代の画家からもっとも離れたところにあるような蒔絵への興味を、研究者とは違った視点で掘り起こしている。日本の古くからある工芸品と現代の絵画を平行して見ることができる感覚があるのだろう。彼女の絵の中の光とはそのような闇や暗がりと微妙なバランスを保ちながら存在する光であって、それは西洋絵画の基本にあるキアロスクーロ(明暗法)から来る強い光とはおよそ違っている。強い光への志向がその一方で科学の発展をもたらし、その果てに何をもたらしたかはついつい想像してしまうところだが、彼女の絵の光はその反対をいっている。これもひとつの時代の終わりと別の時代の始まりを予告しているのだろう。こうした感受性は今までになかったもので、たとえば人間以外の生きもの、誰かが彼女の絵を評して猫のような、と言っていたが、そのような視点がこの世代の中に育ちつつあることが何とも妙で新鮮であった。
もうひとつはこの惑星に関することで、これもまた何ものかの終わりと始まりを感じさせる。中村葵の「マールスの日」という約6分のビデオで、音に近いことばと単純な映像で構成された作品である。話は画面の女性が「た・し・か・そ・の・と・し・は・な・ん・ま・ん・ね・ん・に・い・ち・ど・の・か・せ・い・だ・い・せっ・き・ん・の・と・し・で・・」とたどたどしく語るところから始まる。そして“私”がピンポン球のようなものをひろい、それがクシャッと割れて鳥の卵だとわかる・・カッコウの巣から落とされたらしい。それから謎めいた母の寝言の言葉があり(作者はこれを“神託”としている)最後は火星が地球からはなれていく・・といったストーリー展開であるが、まずそのしゃべり方が異様である。それは第一に痛々しい。障害を持った人がやっとのことでヒトの言語をしゃべっているようでもあり、また日本語をしゃべれない外国人がたどたどしくことばを発音しているようでもある。あるいは感情を持ちはじめたアンドロイドが、なんとか人間のように発話しているかのようでもある。
そこにことばという音声の持つインパクトがあり、薄暗がりの画像にいるヒトのかたちのおぼろげなさとリンクして、ビデオと言う媒体の原初的な意味がむきだしになっている。それはあたかもサイエンスフィクション+サイコドラマにいきなり立ち会わされているようなもので、「これはほかの惑星のことかもしれない」、あるいは「ここまで来てしまったのか」という思いを見る側が抱いてしまったとしても何の不思議もなく、多くの時間と距離に隔てられた孤独感と、そこがほかならぬここであることの生々しい現実感が漂うのだ。
しかし実際の制作はもっと即物的で、作者によれば、「最初に普通に文を読み録音、それを何十倍かにした音源を作り(6分×20=2時間)、その一音一音の長さやテンポを覚え、その覚えたリズムで話す様子を撮影する。さらに撮った映像を20分の1の初めの速度にする。」ということである。
音を伸ばして、また元の音に近い状態に戻し、そこに身体を介在させる。その時生じる誤差のようなものが音を生々しくし、身体を痙攣させるのだろう。それは、あたかも別の惑星で生き延びるための生存訓練をしているかのようでもあるが、現実の問題としてメディウム(媒体)に対する執拗なまでの編集も作用していよう。ビデオ編集とは身体延長のデバイスを使って絵を描くことにほかならない。いや、それ以上に直接的で身体は装置につながると同時に組み込まれている。そこにフィジカルな要素が絡まないはずがなく、そのイメージの生成にはことばの語源の如く身体と物質が関係してくる。そうした確かな物質的想像力が感じられ、ビデオという形式への意識が無理なく発揮されていることが、作品として成立している理由でもある。
私はこの作品を見ながらラース・フォン・トリアー監督の「メランコリア」を思い出してしまった。それは彼の作品のなかでは失敗作に属するものであろうが、メランコリアという惑星が地球に衝突しようという時、鬱に悩んでいた姉のジャスティンの症状が軽くなり、子どもや夫と何不自由なく暮らしている妹のクレアのほうがかえってパニックになるという筋は悪くはない。天体の運行は個人の感情に何らかの影響を及ぼす。他作品とともにそんなことを連想させる作品は何も連想させない作品より遥かによい。しかしあくまでもそれは映画であり、ここで取り上げた中村の作品はアートの場にある。その違いは何か?それには先にあげた物質が関係している。アートの現場とはまず物質と人間が触れ合う場所であり、その意味を探る場所である。ことばや音声や画像を効果としてではなく、それと人間がどういう関係を結ぶか一から始める場所にほかならない。
それは絵の場合でも同じで、人間が絵具(キャンバスも含む)という物質とはじめの関係を結ぶところなのである。先にあげた岩崎にしても、この中村にしてもそういう意味で“つくるをつくる”ことから、ものをつくることを始めているのが興味深い。つくることは、そうした原初的な場にひとりたたずむことである。そこから何が見えるのか?それはなにかの終わりのようでもあり、なにかの始まりのようでもある。
再び私たちは「こんな遠いところまで来てしまった」と言うだろう。そしてこうも言う。「しかし遠いこの惑星は私たちの場なのだ」と。
(今年とりあげた作品はこの2点になってしまったが、それは例年になくこれらが印象深く感じられたからにほかならない。他にも優れた作品はあるが、この2点はすぐにでも公の場で展示できる質と力量を感じさせた。ー2016年1月武蔵野美術大学卒、修了制作展から。なおこれらの作品を含む五美大展は国立新美術館で2月18日から2月28日まで開催)