随分前のことだが、若い友人に、生きている実感がもてないのでSMクラブに通い“女王様”に痛めつけられてそれを得ている、という人がいた。お金を払ってまでそうせざるを得ないことにショックを受けたが、今の社会のなかで若い人間が格闘している様子がうかがえて妙に納得したことを覚えている。
“リアル”を感じていないと身体が不調になり、ひいては病の引き金にもなるのは当然のことで、“リアル”は痛みを伴うものやたとえそれが困難なものでもよい。いや、たいていの“リアル”はそういったものが含まれているはずで、だからこそおもしろく怖くもある。
だからこの国の首相が戦後70年談話のなかで「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」のくだりにはかなりな違和感を覚えた。そのあとで「過去の歴史に真正面から向き合う」と言っているものの、前段のことばとの整合性がよくわからない。前段だけとれば、子や孫、その先の子どもたちは、未来の明るいところだけを見ていればいいと言っているようなもので、これは先述の“リアル”を感じるな、ということに等しい。世代が変わったら歴史はチャラになるというわけでもあるまい。
別の話で言えば、イタリアやギリシアを経由して大量の難民が戦地のシリアやリビアを逃れてドイツやそのほかのヨーロッパの国々に行こうとしている光景が眼に入る。日本の難民受け入れ数のあまりの少なさもあり、なんだか申し訳ないような、あるいは世界の“リアルさ”から取り残されたような気分にもなる。
カズオ・イシグロは先日の日本訪問の際の講演で、ユーゴスラビア崩壊とボスニア、コソボ紛争に触れ「日本からは遠く離れた地に感じられるかもしれないが、私たちにとっては休みの日によく訪れるところだったのでとても近くに感じ、ショックだった。」と語っていた。確かに地理的な距離の問題は大きいだろう。ミャンマーのロヒンギャの難民にしても、まだ私たちの日常と結びつきにくい。私たちはどうしてこうも“リアル”から遠いのか?
では時間的な距離はどうなのだろう?自分たちの家族が関わったとなるとそれはリアルな過去であり、そこにどのような距離が存在するのか?
東京近代美術館での藤田嗣治、全所蔵作品展示を見てそうした時間的な距離があるにもかかわらず、その戦争画が今、リアリティをもって迫ってくることを感じた。
この感覚は塚原晋也の映画「野火」にも共通している。それは時代の不穏な動きにも連動しているが、それ以上に戦争が“リアル”なものとして迫ってきたのは、その“見えなかった歴史”(あるいは見ようとしなかったもの)が“見えるもの”(見ようとするもの)として今まさに押し寄せてきているからだろう。
藤田の作品、とくに戦争画は今までも何回か展示され見てきたが、今回のように他の作品と一緒に展示された大きな展示はなかったように思う。
明るい陶器のような肌をもった裸婦から始まって猫(争闘)、大小の戦闘機が舞う飛行場(これは思ったより明るく軽い)、「アッツ島玉砕」に代表される暗い茶色の戦闘場面の絵、晩年の皮肉のこもった挿絵のような絵まで、時代と格闘したひとりの画家の姿がリアルなかたちで浮かんでくる。
これに関しては、以前、神奈川県美での「戦争/美術」展を見て、藤田嗣治の「猫」(発表当時は「争闘」という題名)とそのとき展示されていた「ブキテマの夜戦」を並べて見てみたいというブログ(絵と絵の距離「戦争/美術」展から)を書いたが、それが実現されている。場所こそ4階と3階で少し離れているが、最初に目に入る「猫」(1940年)には「・・戦争画と考えられることができます。」という解説があり、他方の「ブキテマの夜戦」(1944年)の解説には死体が転がっていることがはっきり書かれている。
実は神奈川県美での展示の時、その絵にあたる照明はもう少し暗く黒っぽく見え、そこに転がるものが兵士の死体か、ものなのか判然としなかった。そしてそのことを後に近美の学芸員に質問した覚えがある。今回の展示では照明がもっと明るくなったのだろうか、明らかに何体かの兵士の死体が描き込まれているのがよくわかる。藤田の他の生々しい戦争画の兵士や人間の極限の姿と対比的に動くものが描かれてない静寂の画面。ただ右奥に戦火の燃える光景がちらりとあるだけで、ここはいかにも戦闘のあとの静寂が支配する森のなかである。死体がものやその所持品などと同じように置かれている。殺し合いの場面を描いた戦争画と一緒におかれて一層輝きをます絵画であることは間違いないが、戦争画を描いた他の画家には見られない作品である。藤田が実際にブキテマに行ったかどうかは諸説ありわからないが、ともかくこの激戦地を描いた。そこには藤田特有のヴィジョンがあったに相違なく、明るい飛行場の零戦を描いていた初期の作品が深い茶色の夜の絵で終わろうとするのも興味深い。
この展示では解説が長めに書いてあり、思わず読み入ってしまう。例えば戦争体験者の体験記は、それを体験していない者にその凄惨な光景をありありと想像させてしまう力があるが、この戦争画の解説も当時の状況を説明し、戦争画と画家の関係をよりわかりやすいものにしている。それによって戦争がより身近なものとして感じられる。だからこの展示は絵とことばによるドキュメンタリー映画のようであり、画家と戦争の関わりを示す一大絵巻ともなっている。戦争画にはそういう受け取り方もあったかと感じるが、それが今回の展示の特徴でもあるだろう(展示資料は字が小さくて読みにくかったが)。
戦争そのもののリアル感はそう簡単にはわからないが、藤田が感じ、描いた絵によってその時代の直接的な手触りが誰にも想像できるようになっている。具体的に言えば「もしそこに私がいたとしら・・・」「その時代に絵を描いたたら・・・」といった想像を迫られる。その意味でも戦争初期に描いた猫(争闘)と末期に描いた「ブキテマの夜戦」は重要でかけがえのない傑作だと思う。
戦争とは究極の殺し合いである。だからその記憶は世代が変わったからと言って簡単に消せるものではないし、消す必要もない。またそれを絶対にやってはいけないものとして遠ざけるのでもなく、もしかすると自分たちの身近に、いつ起るかもしれないものとしてうけとめることこそ、今のここにある現実的な感覚であろう。時間の隔たりがあるにも関わらず、藤田の一連の戦争画が“リアル”感をもって亡霊のように立ち現れたことに新鮮な驚きを感じる。
追記:この展示を含む近美の展示がおもしろい。Re:play1972/2015 は72年の映像表現の再現だが、この展示の長沢英俊さんの映像が今見ても新鮮だ。ユーモアがあり、思わず見ながら微笑んでしまうが、私と世界、身体と世界、視覚と世界の関係が色気をもってたちあがってくる。英俊さんは高校の美術部の大先輩で今でもたまにお会いしているが、世界的な活躍の萌芽がこれらの映像にすでに見て取れる。
またいつもおもしろい企画をしている2階の企画展示室、今回は「てぶくろ|ろくぶて」展だが、これもそれぞれの作品がおもしろい。それは学芸員がすでにある所蔵作品を“読み直し”しているからだろう。これがないと作品は過去の遺産にはなるが、現代に生きない。いつも学芸員の力量が問われている。私はこのなかでは、セザンヌの静物と河口龍夫さんの写真作品の併置に見入ってしまった。すごくよくわかると言った感じなのだ。セザンヌの静物画はすばらしいが、そのとなりに視点をずらした写真(絵ではなく)をさりげなく置いたのがいい。こうした解釈、展示がなぜ今までなかったのか不思議なくらいに感じた。