「たまにはクジャクを解放しろ!」というのはなかなかいいことばだ。クジャクがいつも鳥小屋のなかに飼われていることをさしていっているのだが、かつてのピーコックレヴォリューション(*注1)を想起させ、しかもちょこんと“たまには”をつけたのがいい。
「海のバカヤロー!」はかつての青春ドラマの決め文句だけど「小平に海をつくれー!」には地域性とナンセンスがある。
また「ムサビの建物にぜんぶ色をつけろ!」もはっとする。こういう発想はわるくない。塗りつぶすことからなにかが生まれでてくるかもしれない。
「何か言いたいはずなのに言葉にならない!」も切実。これを叫んでどうするんだ?!というところがあるが何かいい。(*注2)
これらはすべてムサビのなかで行われた学内デモで叫ばれたことばである。
何十年ぶりのデモなのだろう。ともかく思っていることを叫んでデモすることは楽しそうだ。圧倒的に女性が多く、男の子が後ろから少数ついてっているのが微笑ましい。
時は変わる。わたしたちの時代のデモでは何人もが負傷し、精神的に追いこまれ、死に至った学生もいた。政治目標はかかげていたものの、実質それは“遊び”的で“祝祭”的雰囲気が漂うものであった。だからそこから初めて個人的な戦いが始まり、それぞれがそれぞれの場へと散らばっていく、そういう性質のものであったと思う。
上記のデモが中崎ゼミのなかで起こったこととはいえ、デモするリアルはそのままリアルなものである。“何かやってみて”と言われてヤジ馬的にかたちにしたのかもしれないし、参加者は普段は絵画などの制作に専念している人だから表現の一環としてこれをとらえていたのかもしれない。しかし時に歌い、時に笑いながら思っていることを叫んで歩いた事実は変わらない。こういうことが“発生”し、何日間か続いたことはいいことだと思う。
画像はリスボン市立博物館の中、広い庭園に放し飼いになっているクジャクのそれである。まさに“解放されたクジャク”で、何羽もいて人を怖がらない。突然近づいてきて羽をさっと広げたりするからこちらがびっくりするくらいだ。クジャクは本来人のいる空間の中で一緒に飼われていたのだろう。昔行ったペシャワールでもクジャクは悠然と町中を歩いていた。だからあんな大きな羽を持つ鳥がせまいケージにいれられているのはかわいそうではある。
ところでこの博物館は「リスボン大地震」を記録した銅版画などの資料収集で知られている。リスボン大地震は1755年にリスボンを襲ったマグニチュード9クラスの地震で、そのあとの津波の被害も大きく、合計で約6万人以上もの人々が死んだとされている。それがヨーロッパ全体に与えた影響は大きく、“神をそのまま信じていた”ことの反省から、もっと自分たちがまわりのことを知ろうとする機運が生まれてくる。啓蒙思想や科学的にものごとをとらえようとする動きでもある。建築や都市計画に及ぼした影響などは多くの人が指摘しているし、思想的にも“崇高”という概念の形成や後のいくつかの革命にまで影響を与えたと言われるヨーロッパの一大事件であった。
3.11の震災と福島原発事故もわたしたちにとってはそれ以上の大きな事件であるが、これも後にリスボン大地震のように語られることがあるのだろうか?それはどれだけ大きな影響力を持ち、どれだけ大きな歴史の転換をもたらすのだろうか?何が変わり、何が変わらないのか?
たしかなことはわたしたちが今そのなかにいる、ということだ。
そのなかにいることのひとつの確認が冒頭の“たまにはクジャクを解放しろ!”というデモンストレーションなのかもしれない。
(それにしてもいったいクジャクとは何なのだろう?彼女たちが言う“解放されないクジャク”は、明らかに男に向けられている。わたしの中にもクジャクがいるのだ。)
たしかにそれはヤジ馬的でたわいない行動であるが、はじまりのおおきな一歩である。
注1)1967年にアメリカのディヒター博士が提唱した、男性ファッションの革命。従来のダークトーン中心から、もっと色彩を取り入れて美しく着飾ろうとする運動で、孔雀の雄が雌よりも華やかな色彩をもっていることからの命名。(コトバンクから)
当時はわたしも長髪で、ぴったりしたカラーシャツに裾の広がった“パンタロン”をはき、時折ヒッピー風(インド風?)のシャツやフレアのジーンズ(ベルボトム)などを着用していた。ヒッピー文化も入ってきた時期であったが、1968年には大学紛争があちこちで起こり、学生たちはデモによく行った。
注2)他には「ハトは近親相姦をやめろ」「ATMを設置しろ」「他人をもっと愛そう!」「何も変わらなくていい」「今すぐ講評をやめろ」というのもあった。詳しくは中崎ゼミを参照のこと。